ノンフィクションへの挑戦は始まったばかり

和合 開沼さんには社会学者として透徹した視点を感じますが、私はもともと文学の人間で、どちらかというとイメージを追いかけてきた人間です。ノンフィクションにあまりコミットしてきませんでした。ノンフィクションを避けてきたところすらあります。だから、『詩の礫』(徳間書店)で新潮ドキュメント賞の候補作に挙げていただいたことはとても意外でした。

 詩を書くためにはすごく時間がかかります。今日起きたことを即時に作品にはしません。「誰々が犯人で、こういう事件があった」と伝えるのではなく、それを自分の心の中で温めておいて、時間を費やしてから自分の言葉に易化して、そして比喩として書くということなんですよ。震災後に書き続けてきたものを含めて『廃炉詩編』(思潮社)というタイトルで5月の下旬に出版する予定ですが、ノンフィクションへのコミットは自分のなかで始まったばかりですね。

開沼 詩人としての和合さんの立場を考えれば、ノンフィクションへのコミットは本来やらなくてもいい仕事なのかもしれないですよね。それでもやるべきだと考えていらっしゃる。

 一方で、学者の世界を見ていると、学者はそれこそノンフィクションに近いところにいるはずなのに、とりわけ福島の問題については、いまでもフィクショナルなことを続けて成り立っているように思うところもあります。正確には、コミットしている人としていない人の差が明瞭になったのかな。

 もし和合さんが、福島にいない、福島と関係ない詩人だとしたら、震災にコミットしようとは思わなかったであろうという感覚はありますか?

和合 どうでしょう。ただ、東京も福島も地続きなわけじゃないですか。東日本と西日本であればその差異は大きいかもしれませんが、もっと書かれるべきだと思いますね。だけど、ほとんどの詩人たちが震災の詩を書くことがありません。「和合が書いたから書かないんだ」という人もいます。

開沼 それは「役割分担」の意識があるということですか?

和合 どうなんでしょう。Twitterに、このように書いたことがあります。

 日本中の詩友よ、今こそ詩を書くときだ、日本語に命を賭けるのだ、これまで凌ぎを削ってきた詩友よ、お願いする、詩を、詩を書いて下さい、2時46分、黒い波に呑まれてしまった無数の悲しい魂のために、お願いする、私こそは泣いて、詩友に、お願いする。

 でも実際は、詩人たちは、すぐには書かなかったなぁ。震災に関する詩・小説・短歌・俳句として初期に出版されたのが、僕と、長谷川櫂さんの『震災歌集』(中央公論新社)だったんですよね。その後、小説として川上弘美さんなどが出版されています。

開沼 そこから2年が経って、今の状況はどうですか?

和合 これから出てくると思うんですよね、震災の小説。僕も機会を見つけて書こうと思っています。