小学4年生の作文から感じた衝撃

開沼 ただ、和合さんがどれだけ「転転」と言い続けても「結」を見てしまう人もいると思うんですよね。怒りの矛先を見つけたり、こうしたら解決できたんじゃないかと無茶な解決策を性急に出したり。

 もちろん、それが効果を生めばいいんですが、実際は憎悪の感情を煽りたてるだけの結果になったり、多様な立場を無視して無理に1つの結論にまとめようとする暴力的な動きになることも多い。「結」ではなく「転転」なんだということを、和合さんは真っすぐに伝えています。どうすれば「結」がないことが理解されると思いますか?

和合 井上先生の最初の言葉が自分の中でも残っているかもしれませんが、とにかく時間、時間をかけることだと思います。おそらく、僕が生きている時代にはおおよそ何も解決していないでしょう。誰もがそう思っているはずですが、口には出しません。開沼さんがおっしゃったように、ちょっとしたら復興がもたらされるような文脈になっていますけど、そんなレベルではないですよね。

 廃炉にしても30年、40年で本当にできるのかよって。ネズミ一匹で大山鳴動していますが、これからもいくらもネズミが出ることだって考えられます。30年、40年の間に、現場の方々のモチベーションが大きく下がっている可能性だってある。帰郷するにしても、僕の世代、子どもの世代、もしかしたら孫の世代でも解決していないかもしれません。

開沼 博 (かいぬま・ひろし)
社会学者、福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特任研究員。1984年、福島県いわき市生まれ。東京大学文学部卒。同大学院学際情報学府修士課程修了。現在、同博士課程在籍。専攻は社会学。学術誌のほか、「文藝春秋」「AERA」などの媒体にルポルタージュ・評論・書評などを執筆。読売新聞読書委員(2013年~)。
主な著書に、『漂白される社会』(ダイヤモンド社)、『フクシマの正義「日本の変わらなさ」との闘い』(幻冬舎)、『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)など。
第65回毎日出版文化賞人文・社会部門、第32回エネルギーフォーラム賞特別賞。

開沼 そうですね。

和合 だけど、僕が富岡の人のインタビューしていたとき、それでも「『いつか帰れる』って言ってくれるんだったら、30年くらいであれば我慢できる」という声を聞いたんですよ。30年、50年という時間がかかったとしても、何か約束があれば福島の人間は頑張れるんです。目先の復興ではなく、その可能性を模索すべきだと思います。

 今すぐの復興が無理だってことは、誰だって、子どもだってわかっています。福島民報に「ふくしま・きずな物語」という作文が掲載されていますが、これは僕が審査しています。そのなかで、渡利の小学校の4年生が、僕が今話したことを書いていました。

 実は、僕はその子どもの受け売りで話しているんです。それを読んだとき、非常に衝撃を受けました。子どものほうがそういった思想を持っているんですよ。3代後の孫に伝えるために勉強したいという思想です。

開沼 なるほど。

和合 それは執念ですよね、「それでも取り戻すんだ」という執念。誇りです。そういうものを我々の内側に持っている。「20キロ圏内に帰れる」と誰かに約束させる。これは人間としての勝負だと思うんです。3世代、4世代後であったとしても、帰ることができたとしたら、少なくとも負けではないわけです。生まれ育ってきた場所を奪われることに対する勝負です。1人の人間としての尊厳が問われています。

 こうした「転転」の状態を受け止めるためには、長く助走していくという感覚が必要だと思います。ホップ・ステップ・ジャンプじゃなくて、ずっとホップ・ホップ・ホップ、ステップ・ステップ・ステップです。「転」「転」「転」の繰り返しのなかの真理でしょうね。

開沼 その感覚はとても大事ですよね。

和合 きっと、「3世代、4世代してから富岡に帰ったとしてそれが勝利なのか?」と言う人もいるでしょうが、僕はそう思います。