「潔癖さ」が自分を縛る
私が脳内デスノートに誰の名前を書くか考えていたときは、彼ら彼女らの「不快」な面だけを凝視しすぎて、そいつらが完全に排除されることしかあり得ない、そうであるべきだ、と考えていた。
彼ら彼女らは確かに不快だったし、態度を改めるべきだったと今も思う。けれど私は「不快な人が完全に除菌されないとここでは働けない」というくらい、極端なものの見方をしていた。
誰かが不快な行動をしているとき、「その行動を批判すること」と「その行動だけがその人の全てだと考えて、その人自体を排除したいと思うこと」は似ているようで異なる。
そりゃあ、罪に問われるようなひどいことをされた人は、した人に対して「頼むから消えてくれ」と思って当然だろう。
しかし、自分に嫌なことをしてくる全ての人を世界から完全に排除することは、残念ながらできない。「嫌な人とは距離を置きましょう」とは言うものの、自分に不快なことをしてきた人間を端から消していったら、どんどん自分と“関わってもいい”人間がいなくなる。
そして、自分もまた誰かにとっての「不快な人」かもしれないのだ。いや、かもしれないというか、たぶん確実にそうなのだ。かつての職場で、別の誰かはきっと、私の名前を脳内デスノートに書いていた。全くそんなつもりはなかったけれど、私自身にも見えていない私の一面を「消えて欲しいくらい不快」と思う人がいても、決しておかしくはない。
私は、結局のところ不快な人たちを「排除すべきもの」としか見ていなかったし、それは「不快な行為」の批判の範疇を超えて、存在そのものの否定になっていたんだと思う。人間の一面だけを見て判断していた私も未熟だったし、人を見る目に偏見や色眼鏡がなかったといえば嘘になる。「いわゆる“お局”ってやつじゃん」とか「昭和の人だからこういう感じなんだ」とか「体育会出身の人ってこれだから苦手」とか。
不快な人たちには行動を改めて欲しかったが、「若さゆえの視野の狭さと潔癖さ」みたいなものも、結局のところ自分を苦しめていたのだな、と今になって思う。
他にも「問題行動を起こした芸能人を擁護している人とは会話したくない」とか「あの人と仲がいいってことは多分ああいう考え方なんだろうな、気が合わなそう」とか「あの映画についてこういう感想を抱くんだ…無理だな」とか、SNSで見聞きした言動やちょっとした会話の端々で引っかかったポイントを「その人の全てを表すもの」と認識して、ラベルを貼り、遠ざけることを勝手に決めたりしてきた。
不快なところは「薄目で見る」
そんなことを繰り返すうちに、砂場の山崩しの遊びのように、どんどん自分が「許容できる範囲」が削られていった。自分が自分に許せる範囲も狭くなり、自分自身が苦しくなってきて、「このままではもしかして、まずいことになるのかもしれない」と思い、人の不快なところを少しずつ「薄目で見る」ことを覚え始めた。いまだ練習中ではある。
人間が多面的であることを認識するのは、疲れる。
職場の不快な人が家では優しい家庭人であるとわかると、単純なラベリングができなくなって混乱する。自分が嫌いな芸能人を崇拝している人が、腹を割って話してみたら意外と気が合うこともあるのかもしれない。
そんな綺麗な話はそうそうないかもしれないが、やっぱり「人間は皆不完全で、いろんな面を持っているのだ」ということを忘れてしまうと、回り回って自分へのジャッジも厳しくなってしまうし、孤独に生きるしかなくなる気がする。
ここは、自分にとって「不快な人」とも多少は関わって生きていかなければならない世界。自分と「完全に気が合って、不快なことは一切してこない人」だけで世界を構成することは、残念ながらできない。
自分にとっての「不快」を除菌してしまうと「快」もろともなくなってしまうのなら、文句を言いつつ少しの不快を許容する必要があるのだろう。目下の私の目標である。
ライター・コラムニスト
1993年長野県生まれ。大学卒業後、webメディア編集やネット番組企画制作に従事。現在はライター・コラムニストとしてエッセイやインタビュー執筆などを行う。働き方、地方移住などのテーマのほか、既婚・DINKs(仮)として子どもを持たない選択について発信している。既婚子育て中の同僚と、Podcast番組『となりの芝生はソーブルー』を配信中。創作大賞2024にてエッセイ入選。2024年12月に初のエッセイ集『産む気もないのに生理かよ!』を飛鳥新社より刊行。