コラムニスト・月岡ツキ氏のデビュー作『産む気もないのに生理かよ!』(飛鳥新社刊)が30代女性に圧倒的な支持を得ている。本書は、「母になりたい」とは思えないが「母にならない」とファイナルアンサーもできない「私たち」による「私たち」のためのエッセイ集だ。本稿では、同じく悩める女性たちの共感を集めるベストセラー『人生は「気分」が10割 最高の一日が一生続く106の習慣』(著:キム・ダスル、訳:岡崎暢子)の発売記念企画として、旧来的な価値観のまま老いていった祖父との関係にまつわるエッセイを月岡ツキ氏に寄稿いただいた。(企画:ダイヤモンド社書籍編集局)
「ようやくか」
祖父が死にかけている。末期の癌だという。
いや、この記事が世に出ている頃にはもう死んでいるかもしれない。「なんて縁起でもないことを言う孫だ」と思われるだろうが、私としては正直「ようやくか」と思ってしまうところがある。
祖父は家父長制が服を着て歩いているような人間だ。「女子供」には命令形でしか会話ができない。感謝も謝罪もできない。そういう機能が備わっていない。
「コミュニケーション」ではなく「演説」「独演会」「俺プレゼン」しかできない。弱い者をばかにし、権威に媚びへつらう。
祖父との様々な“思い出”はあまり思い出したくない。というか忘れたいことばかりで、実際忘却の彼方に無理矢理追いやってしまった。これで祖父がどんな人間だったか察して欲しい。察せる人には、私が「ようやくか」と言いたくなる気持ちもわかってもらえるだろう。
亡き祖母も母も私も、実家にいる女たちは祖父に泣かされてきた。何度「ジイさん早くくたばれ」と思ったことか。もういなくなってしまった祖母が、親の決めた縁談によって祖父と結婚せざるを得なかったことは心から同情するし、母なんて「嫁」としてこき使われ続けて30年近く経っている。ぶっちゃけ祖父を「もうええでしょう!」とピエール瀧ばりに恫喝して早いとこ引導を渡してやりたい。
ところがどっこい、一時は入院と手術の末に死の淵をさまよった祖父は奇跡の回復を遂げ、これを書いている現在は実家のベッドで寝起きしつつたまに自力で歩いて庭をうろつき、自分の口から物を食べられるほど元気らしい。戦争とコロナ禍を生きのびた老人は生命力が違うようだ。