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「死ぬまで書かせてくれ!?」命を削り100回の連載を続けた有名詩人とは?イラスト:塩井浩平

21歳で「難病」に冒された
明治の俳人

正岡子規(まさおか・しき 1867~1902年)
伊予国温泉郡(現・愛媛県松山市)生まれ。本名・正岡常規(まさおか・つねのり)。帝国大学文科大学中退。代表作は、『歌よみに与ふる書』『病牀六尺』『寒山落木』など。俳句・短歌の革新者として、近代文学に大きな影響を与えた。幼少期から祖父の営む私塾に通い、漢書などを読む。10代から20代前半は勉学のかたわら俳句をつくり始めたほか、野球に打ち込むが、21歳で喀血結核のため大学を中退し、日本新聞社に入社、新聞連載をスタートする。新聞記者として日清戦争に従軍するが、その帰路でふたたび喀血。晩年は結核の悪化により病床に伏しながらも、随筆『病牀六尺』を新聞連載で書き続ける。これらの作品は、病と闘う日々の記録として話題となったが、明治35(1902)年に結核により34歳で死去

療養をかねて漱石と52日間のルームシェア

 新聞記者としての仕事や句作を続けていた子規の転機は、明治27(1894)年の日清戦争でした。

 子規は従軍記者として中国東北部・遼東半島へ赴き、戦地の様子を報道しましたが、帰国途中の船上で大量に喀血し、歩くこともままならない重体となってしまいます。

 28歳のときのことでした。それ以上仕事を続けられなくなった子規は、療養のため地元・松山に移ります。そこで頼ったのが、親友の夏目漱石でした。

 当時、松山で中学教員をしていた漱石は、子規と52日間、いまでいうルームシェアをしていたのです。

 もともと漱石が住んでいた家に、従軍記者として中国から瀕死の状態で帰国した子規が転がり込んできたという形でした。その間、漱石がつくった俳句を子規が添削することもあったといいます。

 また、後に漱石がロンドンへ留学した際にも、子規に手紙を送るなど、親交は続きました

「死ぬまで書かせてくれ」―100回の連載をやり遂げる

 明治の言論界を代表する新聞『日本』に、子規は随筆『病牀六尺』を連載し、34年と11か月の人生を終える死の2日前まで執筆を続けました

 最期の年となる明治35(1902)年、当時は死に至る感染症であった結核菌が脊椎に感染し、「脊椎カリエス」を発症

 背骨の痛みに苦しみ、寝たきりになったため、一時は連載が中断されることもありました。しかし、そんな困難な状況にあっても、子規は「自分は書きたいんだ」と強く訴えます。

「病牀六尺」への執念

 子規は、友人の古島一念に宛てた手紙で、次のように綴りました。

「拝啓 僕の今日の命は『病牀六尺』にあるのです。
毎朝寝起きには死ぬほど苦しいのです。
その中で新聞を開けて『病牀六尺』を見るとわずかに蘇るのです。
今朝新聞を見た時の苦しさ、病牀六尺がないので泣き出しました。
どーもたまりません。もしできるなら少しでも(半分でも)載せていただいたら命が助かります。
僕はこんな我儘を言わねばならぬほど、弱っているのです」

(明治35年5月20日ごろ 古島一念宛書簡)

 この手紙を受け、新聞『日本』の編集長は「死ぬまで毎日載せる」と約束。連載は再開されました。

100回の連載達成と、残された200枚の封筒

 子規は、連載記事を新聞社に送るための封筒を依頼し、100枚の原稿を送り続けました

 これに対し、新聞社は300枚の封筒を送り、子規を励まし続けました。そして、ついに100回の連載をやり遂げたのです。

 子規は連載達成の喜びを、次のように書き記しました。

「この百日といふ長い月日を経過した嬉しさは人にはわからんことであらう。
しかしあとにまだ二百枚の状袋がある。
二百枚は二百日である。二百日は半年以上である。
半年以上もすれば梅の花が咲いて来る。
果たして病人の眼中に梅の花が咲くであらうか」

ー『病牀六尺』(岩波文庫)

 そうやって、子規は死の直前まで連載を書き続け、ついに最後までやり遂げたのです。

※本稿は、ビジネスエリートのための 教養としての文豪』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。