もちろん多くの人はそこまでわからない。でも実のところは意識下の情報として受け取っている。アフレコの洋画を観ながらどうしても違和感を抱いてしまう理由のひとつは、姿かたちと声とが一致していないからだ。つまり声はその人を体現する。とても重要な要素なのだ。

 声そのものだけではなく、しゃべりかたも重要だ。オバマがスピーチのどこで息をついたのか、どこで吃ったのか、どこに力をこめたのか、そんなドキュメンタルな要素が、ボイスオーバーによって潰される。消されてしまう。

 拉致問題がピークのころ、テレビでハングル翻訳の仕事をしている知人が、「北朝鮮国民の翻訳を攻撃的なニュアンスに変えられてしまう」とこぼしていたことは前回に書いた。関西テレビの「あるある大辞典」の納豆問題が大騒ぎになったとき、納豆の存在すら知らなかった海外の研究者のインタビューに「納豆にはダイエット効果がある」とボイスオーバー処理を施していたことも明らかになった。もしも声の重要さに多くの人が気づいていたならば、こんなレベルの捏造など生まれなかっただろう。

 最近暴走しているもうひとつの加算はモザイク。つい数日前、たまたま付けたテレビのチャンネルで、昔の歌謡番組の映像を流していた。チャンネルを変えようとした僕は、リモコンを持つ手を思わず止めた。カメラが客席を向いたその瞬間、画面いっぱいにモザイクが現れたからだ。

 昔はそのまま放送した映像のはずだ。でも今は当たり前のように画面いっぱいのモザイク。この処理を施したディレクターか命じたプロデューサーは、個人情報とか人権とか肖像権とか、そんな気遣いをしたつもりなのだろうか。もしも仮にそうならば(そうとしか思えないけれど)、違う仕事を探しなさいと僕は言いたい。表現は人を加害する。開き直れという意味ではなく、その覚悟をしなくてはならない。個人情報だの肖像権だのを優先するならば、表現を仕事に選ぶべきではない。

 テレビ業界に入ったばかりのAD時代、先輩ディレクターが担当した番組のオンエアを局のスタッフルームで一緒に観ていたとき、かなり大きな地震があった。そのときの先輩ディレクターの怒りと嘆きはすごかった。なぜよりによってオレの作品が放送されるときに地震なんて起きるのだと、大げさではなく髪をかきむしって悔しがっていた。地震の速報テロップが画面に入るからだ。それほどに画に誇りとこだわりを持っていた。モザイクなど論外だった。

 容疑者が逮捕されたとき、その手錠には必ずモザイク処理が施される。現役時代、局の報道部デスクに、その理由を僕は訊ねたことがある。彼は言った。

 「人権への配慮だ」

 「つまり、まだ容疑者だからですか」

 「そういうことだ」