現代と同じグローバル化を迎えていた幕末。遣米使節団としてアメリカに渡った福沢諭吉は、このクロスボーダーの体験をもとに大きく飛躍することとなる。しかし、渡米は偶然ではなく、諭吉の行動の結果であった。連載第14回は、グローバル化が叫ばれる今、チャンスをつかむために必要な要素について考える。

咸臨丸に乗った時点で
プラチナチケットを掴んでいた

 1860年、日本で初めて遣米使節団が結成され、咸臨丸という船に乗って太平洋横断の旅をすることになります。ところが、福沢諭吉は数年前に大阪の適塾から江戸に出てきたばかり。江戸幕府の壮大な事業に口利きをしてくれるつてなど、あるはずがありません。

 艦長をすることになっていた木村摂津守に直接の知人はいないので、江戸で教えを受けていた蘭学医の桂川甫周に頼んで、木村摂津守に紹介状を書いてもらいます。

 もらった紹介状を手に摂津守を尋ねると、即刻「よろしい。連れて行ってやろう」との回答を得ることができたのです。

 諭吉の自伝には、のちの回想で、当時太平洋横断など、命がけの冒険だと思われていたので、摂津守の家来中でも行きたくない者はたくさんいたと思われる。その挑戦的な事業に自分から行きたいと願い出るなど、おかしな奴だが「これ幸い」と思われたのでは、と書いています。

 しかし、幕府の重要事業だから摂津守が従者をたくさん連れて行くだろうことを洞察し、自らつてを使って紹介状をもらう。この行動力が彼の人生を変える扉を開きます。

 咸臨丸でアメリカに向かったのは97人。37日間の航海でしたが、この咸臨丸に乗船したことで、日本初の遣米使節団だけが体験できた極めて貴重な時間を諭吉は過ごすことになります。自分のアタマを使い、行動力を発揮した諭吉ならではの逸話です。

 当時、日本の人口は約3000万人。その中でたった97名しかできない体験を手に入れた行動力。大ヒット書籍、『西洋事情』を諭吉が書き上げる数年前の話です。