時代が変化するたびに飛躍できる人たちがいる。彼らに共通するのは、新しい世界との上手な接し方だ。連載第12回は、サムライの時代から、ガス灯で洋装の時代への急激な変化を生き抜いた福沢諭吉の人生遍歴から、飛躍を生み出すための「接する技術」について考える。
“接する技術”
福沢諭吉と『学問のすすめ』から学べること
幕末から明治期は、過去日本になかった海外の知識が怒涛のように押し寄せた時代です。歴史の教科書でも習う、長崎の出島は1641年から1859年までオランダ貿易が行われた場所ですが、日本の鎖国が終了したことでその役割を終えています。
諭吉は大阪で下級藩士の息子として生まれますが、幼少の頃に父を亡くしたことで大分県の中津藩に母と戻ります。
彼は下級武士の生まれであり、身分制度の厳しい時代にあって上士の子からの差別に反発を覚える少年時代を過ごします。しかし19歳で黒船の影響から長崎に留学したことが、その後の新しい人生を開くことになります。
注目したいのは、彼が新しいものや文化、時代に接する度に「飛躍している」ことです。
【新しいモノに接して飛躍する諭吉】
・ペリーの黒船来航の影響で、長崎留学をする
・蘭学に出会い、真面目な勉学態度で周囲に認められる
・よりレベルの高い大阪の適塾で塾頭にまで登りつめる
・藩の江戸屋敷で講師をする命を受け上京
・横浜でオランダ語がまったく通じないことに衝撃を受ける
・衝撃を受けた数日後、英語学習を開始
・江戸で渡米、渡欧のチャンスを掴む
・海外視察経験から『西洋事情』を書き大ヒット
・『学問のすすめ』『文明論之概略」等を出版、教育家の道を歩む
連載第11回で「ライセンシング効果」というものをご説明しましたが、蘭学の学習とオランダ語の習得は当時、洋学をめざす学生が血眼で行った勉学でした。
世界的には英語が主流になりつつある状態に衝撃を受けた時、「今までの自分の努力」に諭吉が目を向けていたら、英語を新たに学ぶことをあきらめてしまったかもしれません。
彼は『学問のすすめ』の著者らしく、「学ぶ理由」に目を向けたのでしょう。
新しい文明や海外技術を導入する先駆者になることが目的で、その理由のためにこれまで学習をしてきたならば、世界の潮流が英語である限り、彼がすぐさま英語を学ぶ決意をしたのは、むしろ当たり前なのかもしれません。
長崎留学、大阪の適塾、江戸の学者たち、アメリカ、欧州各国。それぞれの年齢で、諭吉は新しくレベルの高い世界や人物、技術に触れることになります。
ほとんどの人は、どこかの段階で「もういいや」となり、自分の過去の栄光や実績に目を向けることで、怠惰な方向に流れて時代遅れになっていきます。
ところが、福沢諭吉という人物は違います。あらゆる新しい流れに接した時、自分の“理由”に合致している限り、真摯に学ぶ姿勢を一切変えることがありませんでした。“理由”に心の焦点を集め続けることで、彼は激動の時代に接して、より新しい文化や技術に接しても、留まることない好奇心と学習意欲を発揮し続けたのです。