動機としての支配
ひろゆきは、議論において相手からどう思われるかということに、そもそも関心を持っていない。だからこそ彼は、相手から嫌われたり、怒られたりすることも、まったく意に介さない。それどころか、議論を有利に進めるために、意図的に不愉快な言動をして、相手からの嫌悪感を誘発し、相手を感情的にさせることもある。彼は次のように述べる。
彼にとって議論は、仮説を検証する遊びに近いものである。議論の目的が相手を論破することであるとすれば、相手がどのような言動をするのかを予測し、その一手先を読んで、相手を詰ませることができなければならない。どうやら彼は、議論が開始される時点で、相手の言動について一定の仮説を構築しているようだ。その仮説は、最初は開かれたものだが、やり取りを繰り返すなかで、徐々に限定された振れ幅のないものへと確証されていく。彼は、そのプロセスに面白みを感じるという。
ただしそれは、議論の相手を理解するために行われるのではない。彼が関心を持っているのは、あくまでも第三者に論破を認めさせることであり、相手と互いに理解し合うことではない。したがって、こうした仮説の検証も、あくまで相手を自分が向かわせたい帰結へ、つまり相手が袋小路に陥って敗北する未来へ誘導するために、行われる。そしてそこに、彼が他者と議論しようとする動機がある。
そしておいらの場合、昔から自分の中で「思いどおりにしたい」という気持ちが強ければ強いほど、どうやら論破力が発揮されるようなのです。

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彼が「論破王」として振舞っているのは、多かれ少なかれ、討論番組においてその役割を求められているからだろう。しかし、そうした演出上の意図を差し引いたとしても、この点については、彼自身の価値観によるものではないか。つまり彼は、論理を駆使して相手を支配し、自らの目的を果たすことに、達成感を抱いているのではないか。
なぜ、ひろゆきは相手を論破しようとするのだろうか。それは彼が相手を支配したいと欲望しているからである。彼の論破への動機はそこに存している。
※AERA DIGITALより転載