日高屋 店舗の外観Photo:PIXTA

「石の上にも三年」ではなく、「石の上にも3カ月」。そう語るのは、「中卒のパチスロ好き」から東証上場企業の会長へと上り詰め、「日高屋」を築いた神田正氏だ。日本では一つの仕事を長く続けることが美徳とされてきたが、神田氏はノウハウを学んだら次の職場へと移る転職を繰り返し、経験を積み重ねてきた。その独特の働き方は、どのようにして成功につながったのか。※本稿は、株式会社ハイデイ日高代表取締役会長の神田 正『日高屋 10人中6人に美味しいといわれたい』(日本実業出版社)の一部を抜粋・編集したものです。

友人の言葉がきっかけで
社会の落ちこぼれにならずに済んだ

 日高屋創業者の神田正は、当時ちょっとした遊び人であり、大宮の繁華街を胸を張って歩いていた。神田は中学校を卒業して社会に出てからも、「貧乏だけは絶対嫌だ」と人の2~3倍の勢いで生きてきた。

 パチプロ生活は、中学1年生から家計を支えるために働き詰めに働いて生きてきた自分への特別休暇のようなものだった。しかしながら、「このままでは社会の落ちこぼれになってしまう」と悩んでいたのだった。

 そんな神田に声を掛けてきたのが、現・日高市の高萩中学校時代からの友人だった。

「村一番の貧乏家で中学校しか出ていないのに、ホンダの臨時工から正社員に抜擢されたお前が、パチプロの遊び人をやっているというのでは、母上に対しても申し訳が立たないだろう。今のままでは社会の落ちこぼれになるぞ。荒川の河川敷でホームレス生活を送るようになるぞ!今、浦和市(現・さいたま市浦和区)のラーメン屋のオヤジが出前を募集している。手に職を付けて、ラーメン屋で独立したらどうか?」(中学時代の友人)