量子コンピュータが私たちの未来を変える日は実はすぐそこまで来ている。
そんな今だからこそ、量子コンピュータについて知ることには大きな意味がある。単なる専門技術ではなく、これからの世界を理解し、自らの立場でどう関わるかを考えるための「新しい教養」だ。
『教養としての量子コンピュータ』では、最前線で研究を牽引する大阪大学教授の藤井啓祐氏が、物理学、情報科学、ビジネスの視点から、量子コンピュータをわかりやすく、かつ面白く伝えている。今回は宇宙と量子コンピュータについて特別な書き下ろしをお届けする(ダイヤモンド社書籍編集局)。
Photo: Adobe Stock
小さすぎる量子、大きすぎる宇宙
先日、宇宙飛行士の若田光一さんと対談する機会をいただき、宇宙産業と量子技術との接点について考えてみた。
量子は小さすぎて直接見ることができず、宇宙は大きすぎて全体像をつかむことが難しい。
人間の知覚の両端にあり、本来なら交わることのない領域であるが、調べていくうちに、意外にも量子技術と宇宙の共通点が多い。
理想的な環境
まずは、宇宙産業のための量子技術という視点だ。
量子暗号は、観測すれば状態が必ず乱れるという量子特有の性質を使って、盗聴を原理的に不可能にする通信方式である。
しかし、地上の光ファイバーには距離の限界がある。
そこで衛星を用いて大陸間通信の量子暗号通信を行うという方式がある。
中国が打ち上げた量子通信衛星「墨子号」は、その象徴的な存在だ。
宇宙の静けさと透明性は、量子情報のような壊れやすい信号を運ぶには理想的な環境でありつつある。
また、無重力となる宇宙空間では地上では実現できない精密測定を可能にし、量子センサーの極限性能を試す自然実験場にもなる。
宇宙を支えられるか?
一方で、量子技術が宇宙を支える側面もあるだろう。
原子干渉計による量子慣性センサーは、宇宙船の姿勢制御や軌道航法を根本から変える潜在力を持つ。
さらに、スペースデブリの軌道解析や惑星大気の流体シミュレーション、宇宙天気の予測など、宇宙産業で必要とされる計算の多くは、量子計算の適用が真剣に議論され始めている。
最近も太陽フレアの影響で航空機が欠航したが、同じ現象は衛星にも量子コンピュータにも深刻な影響を及ぼす。
プラズマや磁気流体のシミュレーションは量子計算の研究でも最近重要テーマになりつつあり、太陽活動の理解に量子が寄与する未来は十分にあり得る。
新しい産業基盤
さらに、宇宙と量子には産業構造としての共通点がある。
宇宙通信を支えるマイクロ波技術は量子ビット制御の中核でもあり、両者は技術基盤を部分的に共有する。
ロケットも量子コンピュータも、自動車のように大量生産されるものではなく、一台ごとに極端な精度と信頼性が求められる。
特殊部品の調達、品質管理、知識の継承といった課題は共通しており、むしろ両分野が協力することで新しい産業基盤が生まれる可能性がある。
地球の常識はレア?
しかし、両者の根っこにある共通点は、こうした技術的側面よりもっと深い。
量子力学は、重ね合わせや量子もつれといった、日常経験からは到底受け入れがたい現象を前提として成立している。
一方、宇宙は無重力や極限環境を通して、地球上の常識がどれほど特異な条件の上に成り立っているかを教えてくれる。
宇宙で生まれ育った人を想像してみよう。
そんな人が地球の映像を初めて見たら、重力によって人が地面に吸い付くように立っている光景を奇妙な物理現象として眺めるだろう。
常識とは、環境がつくったルールに過ぎず、多くの人が量子力学に感じる不思議も似たようなものである。
量子と宇宙は、人類がこれまで触れてこなかった領域を切り拓いてきたフロンティアの象徴である。
日常の延長にはない世界へと越境することで、新しい知の体系や技術革新が生まれる。
宇宙と量子という二つの極端なフロンティアが交わる場所には、まだ誰も見つけていない可能性があるのではないか。
(本稿は『教養としての量子コンピュータ』の著者が特別に書き下ろしたものです。)





