量子コンピュータが私たちの未来を変える日は実はすぐそこまで来ている。
そんな今だからこそ、量子コンピュータについて知ることには大きな意味がある。単なる専門技術ではなく、これからの世界を理解し、自らの立場でどう関わるかを考えるための「新しい教養」だ。
『教養としての量子コンピュータ』では、最前線で研究を牽引する大阪大学教授の藤井啓祐氏が、物理学、情報科学、ビジネスの視点から、量子コンピュータをわかりやすく、かつ面白く伝えている。今回は私たちが体感している量子力学の世界について特別な書き下ろしをお届けする(ダイヤモンド社書籍編集局)。
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私たちの身体と量子力学
「脳は量子コンピュータなのか?」という問いは、しばしばSFや哲学の文脈で語られる。
しかし実は、私たちの身体はすでに量子力学的な現象を日常的に利用している。
その代表例が、核磁気共鳴(NMR)とMRIである。
原子核の中には「核スピン」と呼ばれる小さな磁石のような性質を持つものがある。
水素原子核はその典型で、体内の水分子に大量に含まれている。
この核スピンは、上向きと下向きという二つの状態をとるが、その違いは非常に微弱だ。
室温では、ほとんどの核スピンはランダムな向きを向いており、その差を直接検出することはできない。
そこで必要になるのが、非常に強い磁場である。
MRIのひみつ
MRI装置の中に入ると、私たちは数テスラにも及ぶ強力な磁場にさらされる。
この磁場によって、核スピンの向きにわずかな偏りが生じる。
そこにラジオ波、つまり電磁波を照射すると、核スピンが共鳴的に反応し、再び信号を放出する。
その信号を精密に解析することで、体内の水分子の分布、すなわち臓器や組織の構造を画像として描き出している。
MRIとは、まさに量子力学的なスピンの振る舞いを利用した医療機器なのである。
この原理は、初期の量子コンピュータ実験で用いられた「NMR型量子コンピュータ」と本質的に同じだ。
核スピンを量子ビットとして使い、ラジオ波で操作する。
つまり、MRIの技術を量子情報処理へと応用したのがNMR量子コンピュータだった。
そう考えると、人間ドックでMRIに入るたびに、私たちは量子コンピュータの気分を味わっている、と言ってもあながち冗談ではない。
ただし、ここには大きな課題がある。室温では、どれほど強い磁場をかけても核スピンの向きはほとんど揃わない。
量子コンピュータにおいても、量子ビットの初期状態を揃えることは極めて重要な問題であり、核スピンはその点で扱いが難しい存在だった。
近年、この問題を克服する技術として注目されているのが「室温超偏極」と呼ばれる手法である。
比較的向きを揃えやすい電子スピンと量子情報をやり取りすることで、核スピンの向きを大きく揃えることができる。
この技術を使えば、MRI信号の強度を何桁も増強することが可能になる。
SFの世界が近づいている
さらに、この超偏極した物質を体内に注入することで、代謝や化学反応を極めて高感度に観測できる。
例えば、抗がん剤が腫瘍に効いているかどうかを、従来よりもはるかに高速に判定できる可能性がある。
これは量子力学を用いた「量子センシング」として、医療応用が大いに期待されている分野だ。
1960年代のSF映画『ミクロの決死圏』では、人間の体内に小型化された装置を送り込み、病巣を直接治療するという物語が描かれた。
今、その世界が現実に近づきつつある。
量子技術によって感度を極限まで高めた小型量子コンピュータを搭載したセンサーを体内に送り込み、異常をいち早く検出する。
脳が量子コンピュータかどうかはさておき、私たちの身体は、すでに量子技術と深く結びついた未来へと歩み始めている。
(本稿は『教養としての量子コンピュータ』の著者が特別に書き下ろしたものです。)





