「プロレスとは闘いである」という猪木イズムに忠実に生きた藤原。しかし、昭和の新日本において藤原は、“猪木派”であっても決して主流派ではなく、選手間の秩序からは距離を置いたアウトローだった。周囲に迎合せず、取り憑かれたように寝技の練習に打ち込む藤原を「変わりもん」と呼ぶ者もいた。
寝技に開眼したきっかけは
プロレスの神様・カール・ゴッチ
そんな新日本道場で藤原が寝技に開眼するきっかけは、やはりコーチとして来日したカール・ゴッチの存在だった。
「新日本に入門して2カ月が経った頃、ちょうどゴッチさんが来日して、道場でコーチしてくれたんだ。その時、関節技をいろいろと教えてくれて、『あっ、これホンモノだわ』と感じた。そこから『関節技って面白れえな』と思うようになったんだ。
関節技っていうのは最小限の力で最大限の効果をあげるという力学だからね。俺は工業高校機械科卒業で、応用力学の成績は“5”だったから、ああいうのは得意なんだよ」
ここから藤原は、関節技にどんどんのめり込んでいく。
「俺が誰よりも関節技にハマっていったのは、自分の性格が関係していたと思う。俺は何か1つのことにハマると、そればっかりに熱中するんだ。本来は面倒くさがり屋なんだけど、自分が興味を持ったことには徹夜でもやるからね。
たとえば、焼き物なんかをやっていると、気がついたら何時間も経っていたなんていうのはしょっちゅうだし、陶器のゴジラをつくった時なんか、計算してみたら23時間もぶっ通しでやっていたからな。それだけ続けていても苦痛でもなんでもない。自分が好きなことをやっている時は夜中だろうがパッと目が覚めて、『そうだ、これをやってみよう』って、窯焚きを始めたりな。好きになって集中すると、俺はしつこいんだよ」
多趣味で知られる藤原は、焼き物以外にもイラスト、盆栽、浪曲など、すべて玄人はだしの腕前だが、それは好きなものを突き詰めていく性格が関係していた。そしてプロレスにおいて藤原が最も好きになりハマったのが、ゴッチから学んだ関節技だったということだろう。
新日本の道場内にできた
たった2人の関節技研究室
75年7月、デビューから3年近く経ち、関節技の孤独な研究を続けていた藤原に、歳の離れた同志が現れる。山口県から上京し、16歳で新日本に入門してきた佐山聡だ。
佐山が入門テストを受けた際、スパーリングの相手をしたのが藤原だった。







