社会に大きな衝撃を与えた「フジテレビ事件」と、それを受けた第三者委員会の調査報告書をきっかけに執筆された『集団浅慮:「優秀だった男たち」はなぜ道を誤るのか?』(古賀史健)。その出版を記念した対談が、ブックファースト新宿店で開催されました。ゲストは、『わたしたちは無痛恋愛がしたい』を連載する漫画家であり、「パブリックスピーカー」「フェミニスト」としても活動する瀧波ユカリ氏。お二人の対談の模様をダイジェストでお届けする連載の第2回です(全3回)。[構成/ダイヤモンド社 横田大樹]

日本の組織にはびこる「責任洗浄」
瀧波ユカリ(以下、瀧波):最近自分で気に入って使ってる言葉があって、「責任洗浄」って言葉なんです。マネーロンダリングみたいに、資金洗浄と同じ意味で責任を洗浄する。本当は組織のトップとかが追うべき責任を分担してごまかしたり曖昧にしたりして、薄めて綺麗に洗い流してしまう。
それを行う仕組みっていうのが、家庭の中でも政治の中でもどんな組織でも、すでにリスト化されてると思うんですよね。たとえば、直近の衆院選挙なんかも、いろんな問題を曖昧にして「国民の信任を得ました」とする責任洗浄の場として利用されている気がします。
古賀史健(以下、古賀):確かに、それはすごくしっくりくる言葉ですね。
瀧波:フジテレビの問題も、責任を曖昧にするために何が利用されてるかっていうと、私はミソジニーだと思うんですよね。たとえば男性が取引先に殴られたりとかしたら大ごとです。だけど、女性が自分の家に行ったんだし、これは恋愛のもつれでしょうっていう風に。人間じゃなくて女に変換することで、ミソジニーの発想を利用することで、責任を洗浄している。
そして、ここにはもう責任はないですよっていう風にミソジニーを使って洗い流した結果、みんなも「そうなんだぁ」みたいになるという結果が集団浅慮。
瀧波ユカリ(たきなみ・ゆかり)1980年札幌市に生まれ、釧路市で育つ。日本大学芸術学部写真学科を卒業後、2004年に4コマ漫画『臨死!!江古田ちゃん』でデビュー。以降、漫画とエッセイを中心に幅広い創作活動を展開している。東京都在住、一児の母。
古賀:なるほど。戦前の日本が戦争に突き進んでいったプロセスも、A級戦犯とか東條英機とか名前があがる人はいるけれど、つぶさに追って行くと結局誰が悪いかわからない状態になっています。誰も触れちゃいけないところに責任を預けて、責任を追うべき人たちが「俺はやってない」と言い逃れをして、なんとなくの流れで動いていく。
企業や部活動の不祥事も全部同じ構造ですよね。日本って、特定の独裁的なリーダーが無理やり全員を動かすっていうことはなかなかなくって、ぼんやりとした集団の中でぬるっと物事を進めていく。なぜそんな進め方が上手なのかというと、おっしゃるように「責任洗浄」ですよね。責任の所在を分散して洗い流すことによって、自分ひとりが責任を問われずに済む構造。責任を負うっていうことに対する恐怖が、多分人一倍強いんだろうなと思います。
瀧波:責任を取る機会があまりにも少ないし、こういう失敗をしたらこういう責任洗浄方法がありますよって、もうすでにリスト化されているんですよね。
たとえば大学生が性犯罪を犯した時に、男の人は元気があるほうがいいみたいなことを当時の大臣が言ったことありますけど、それも、そういうマッチョイズムが責任を洗浄する役目を果たしています。あと、高校の部活とかで部員の1人が部室で喫煙したとなった時に、なぜか連帯責任になって、みんなでグランドを走らされるみたいなことがあります。でも、結局は監督の責任ですよね。それを連帯責任という言葉によって自分の責任を洗浄していく。
あらゆることに対して、トップの男性が責任を取らなくて済むための洗剤というのが用意されているんですよね。
そういう、どうやって責任が洗い流されているのか?ということを説明することは、権力の腹をぶんなぐることになるので、ぜひ古賀さんに書いてほしいんですけどね。
古賀:『集団浅慮』は自分の中でイレギュラーな本だと思ってたんですよ。もともとジャーナリスト的な活動をしてたわけでもないし、ビジネス書とか自己啓発書と言われる分野で仕事をしていて。
それが今回この本は、第三者委員会の熱にあてられてやっちゃったという感じで、「こういう本を書くのは最初で最後だろうな」と思っていたんです。でも、本が出版されてからの周りの反響だったり、書き進めながら学んだこと、見えた景色みたいなものから、自分の執筆活動の中でこれは1回こっきりの話じゃないかもな、と思うようになりました。特に「人権」というキーワードに関しては、ライフワークの1つとしてやっていきたいなと思ってますね。
瀧波:とても心強いです。
「与党内野党」というポジションの重要性
古賀:もうひとつ言うと、この話って、さっきの『TVタックル』と似た構図だったりするのかもしれません。
瀧波さんは、津田大介さんの「ポリタスTV」に出演されてますけど、津田さんと僕が同級生の友達なんですよね。で、津田さんの立場って、政治に置き換えていうと、完全な野党の人だと思うんです。与党とか政権とかのマジョリティに対して、常に正面から真っ当なことを言うのが津田さんの仕事だと思っていて。
でも、与党っていうのは、野党が何を言っても基本的に変わる気はないんですよね。田嶋陽子さんが何を言っても、世の多くの男性が変わらなかったのと同じように。
だから、与党の中に「党内野党」みたいな人間が手を挙げて、津田さんみたいな野党側の人間と共鳴するような状況を作っていくのがいいんじゃないか、という仮説が僕の中にあるんです。
なので、僕が取るべきスタンスは「党内野党」。あくまでも与党(男性側)に軸足を置いて、そこから声を上げる人間になろうかと。ビジネス書というスタイルをとるのもそうだし、その男性たちの横に立って、「あなた、それやばいですよ。俺もやったことあるけど、それ絶対やっちゃダメですよ」みたいな語りをしていく。そうしないと、マジョリティの、与党の人たちは変わらないんじゃないかと思います。
瀧波:いい意味でマジョリティとしての裏切り者になってほしいんですよね。たとえば自民党の赤沢亮正さん。私、特に何の感情も持ってなかったんですけど、石破政権の時に発言とかを調べてみたら、女性の性暴力について党派を超えて法改正に持っていくものすごい力を発揮したということがわかって、びっくりしました。自民党の中でそんなことできるんだと思って。
古賀:そう、周りの議員に『存在しない女たち』(キャロライン・クリアド=ペレス著/河出書房新社)を薦めたり。
瀧波:男性って、自分の特権を自覚したくないっていう時期と、自覚したことによって、やたら申し訳なくなる時期があると思うんです。「はい、なんか男性ですみません」みたいな。でも、知らんがなですよ。こっちには別に謝らなくてもいいから、その特権を使って良い方向になるようにしよう、マイノリティにとって利益が出るように使おうっていうのが、一番正しい立ち位置だと思うんですよね。
古賀:確かに、フェミニズムを知るほど「男ですみません」はあります。申し訳なさを感じてしまう。
瀧波:思っててもいいけど、女性に向かってすみませんって言うことで、あなた楽になろうとしてないって?思ってしまうんですよね。特権を持っている俺たちも辛いんですよ、みたいなことを言うのも一種の逃げであり、責任洗浄だと思います。男同士で話し合って、その特権をどう解体していくかを考えてほしいです。
古賀:その通りですね。ホモソーシャルなノリの中で物事が決まっていく男性社会にも、「この会社のこういうとことが嫌だな」って思ってる人は絶対いるはずなんで、そういう人たちとうまく連携しながら、これからやっていきたいなと思ってますね。
「責任を取る」とはどういうこと? (対談後の質疑応答より)
――「責任洗浄」というお話が大変面白かったです。たとえば政治家だと辞任したら責任を取ったことになるとか、会社とかでも関係会社とか地方に飛ばされたらなんか責任取ったねみたいな感じになっちゃうことあるんですけど、それってどうなんでしょう? 古賀さんと瀧波さんが考える「責任を取るとはどういうことか」について伺いたいです。
瀧波:そうですね。私は「責任」って日本語がすごく曖昧に設定されていると思っていて。けじめみたいな意味で使われたりとか。けじめ自体も、頭をそり上げてこれるかみたいに曖昧なんですが、雰囲気はノリですよね。
でも英語だと、責任に該当する言葉がいくつかある。たとえばレスポンシビリティだと、要はレスポンス、応答をするっていうことで、応答責任と言うことができるはずです。これはどうなってるんだ? って言われた時にきちんと答える。別にそこでいきなり頭をすりつけてごめんなさいっていう必要はないんですね。
この考え方はすごくわかりやすいなと思うんですけど、日本語の場合は「責任」に謎のものがいろいろ紛れ込んでいるので、それもまた責任洗浄にとってメリットになっていると思うんですよね。
古賀:うん、そうですね。「けじめ」や「禊(みそぎ)」とかの言葉が使われてますけど、それはもうサムライ文化みたいなものですよね。責任を取って腹を切るという言葉もありますが、実際に腹を切ることはできないので、辞任や減給、丸坊主といった形で、あくまで「儀式」として腹を切って見せているだけ。
じゃあ、本当の責任の取り方はどうなのかというと、いま瀧波さんがおっしゃったように「レスポンス」を果たすことだと思います。不祥事の謝罪とかで「申し訳ございませんでした」と定型文で頭を下げるだけで、自分の言葉を何も発しないのは、ものすごく良くない言論のあり方だと思います。ミスや不祥事は誰にでも、どの組織にでも起こり得ることで、大切なのは、そこでいかに自分の言葉を足して、質の高いレスポンス(応答)ができるか、ということだと思います。




