知恵や戦略がなくても
年齢を重ねられる時代

 以前、仕事で京都を訪れた。

 夏の暑い盛り、新幹線を降り、足早にタクシー乗り場へ向かうと、既に大行列。皆が苛ついていた。筆者自身もその場で座り込みたくなるのを堪えつつ、ようやく、あと何台かで自分の番……となったそのとき、筆者の目の前に並んでいたご老人2人組が、「○○さーん!コッチコッチ!」と筆者の後方に向かって、手招きしている。振り返ると、知り合いなのだろう、同じような老齢の男性が近寄ってきて筆者を追い越して合流した。……横入りだ。

 先方にも“自覚”があるのか、3人の翁は、コチラを一瞥もしない。気まずさを掻き消したいのか、文句を言われる隙を与えないためか、どうでも良い話題を切れ目なく喋っている。

 ここまでなら、別に筆者も何とも思わない。

 問題はこの後だ。

「○○さ~ん、こっちだよー!」が2回発動され、結局、筆者の前の集団は5人となった。

 4人までなら1台のタクシーで収まるが、5人だと2台。言うまでもなく、筆者のみならず、以降の人たちの待ち時間が、1台分ずつ長引く計算になる。

 さらには、2台のタクシーに分かれて乗り込んだ彼らが車を走らせたのは、別々の方向だった。

「いや、二手に分かれるんか~い!」

 と心の中でツッコんだ。

 ときに、筆者は50代に差し掛かった。正直、そう長生きするとも思っていないので、自分の「老後」、終わりが頭を過る瞬間が増えてきた。

 自分が将来なる/なりつつある「老人」。

『僕たちにはキラキラ生きる義務などない』書影僕たちにはキラキラ生きる義務などない』(山田ルイ53世、大和書房)

「年を重ねているから」敬ってほしいとも思っていないし、むしろ年齢だけでハードルを上げられ、「これどう思います?」「昔はどうでした?」と助言や知見を求められるのは荷が重い。「めちゃめちゃ面白いこと言いまーす!」と宣言させられてから大喜利や漫才に挑むような真似は真っ平御免なのだ。

 先に述べたように、現代は戦国時代とは異なり、特に知恵や戦略がなくとも、年齢を重ねることができてしまう時代。

 結果的に、何も知恵が入っていない、空っぽの「おばあちゃんの知恵袋」が完成してしまったとしても、何も不思議ではない。

 年齢は、あくまで1年経てば人類等しく1つ重ねるだけの数字。そこに大きな意味はないのである。