「政治家になる」という大きな夢を持ち続けたことが、逆境にめげず、ひたすら努力することができた原動力になったのではないでしょうか。
蒲島さんは著書『逆境の中にこそ夢がある』(講談社)の中でこう述べています。
「私はその『夢』を本気で信じていた。私は、そんな夢に対して、一歩だけ前に踏み出すことができた」
JR九州の発足時の経営状況も悲惨なものでした。逆境そのものです。
1987年の国鉄改革により国鉄が解体、全国六つのエリア(北海道、東日本、東海、西日本、四国、九州)に六つのJR旅客会社と全国1本のJR貨物会社が誕生しました。
旧国鉄から九州の線路を引き継いだJR九州の鉄道のほとんどが赤字ローカル線でした。会社発足1年目(1987年度)の鉄道収入が1100億円足らずで、赤字が約300億円。当時は鉄道事業以外の収益はほぼゼロに等しく、鉄道の赤字がそのまま会社の営業損失です。それを国から「手切れ金」のように与えられた経営安定基金の運用益で賄うといういびつなスキームでした。
事情通の人は、「国鉄改革は、赤字ローカル線ばかり抱えた北海道、四国、九州を切り捨て、本州のJRが生き残るために断行された」と非難します。
霞が関の官僚たちも、本州のJR3社(東日本・東海・西日本)には早期の株式上場を期待していました。実際、本州JR3社はいずれも発足から数年で上場を成し遂げました。しかし、JR九州には上場を本気で求めません。上場どころか、JR九州はいったいいつまで保つだろうかというのが彼らの本音のようでした。
逆境にくじけず
夢を諦めなかった結果
幸いにも、JR九州は逆境にくじけませんでした。逆境の中にも夢をみようとしました。
「本州JRのように株式上場を実現したい」「九州にも新幹線を走らせたい」「家族に誇れるようないい会社にしたい」……。
そのころ誰に聞いても「そんなことは不可能だ」と一蹴されていたでしょう。
それでも、JR九州の石井幸孝社長(当時)以下大半の社員は、かなわぬ夢と思いながらも、夢に向かって動きはじめたのです。私もそのひとりです。
まず、社をあげて鉄道事業の改革に取り組みました。ありとあらゆる増収策を講じ、聖域なきコスト削減を追求しました。全国の鉄道会社に先駆け、鉄道にデザイン重視の考え方も導入しました。
もうひとつ、鉄道以外の事業にも果敢に挑戦していきました。会社発足時は、ほぼ100%鉄道会社でした。どの社員も鉄道以外のことはまったくわかりません。しかし、未知の世界に飛び込むことに誰も躊躇しませんでした。
ベーカリー事業、マンション事業、高速船事業、コンビニエンス事業、外食業、広告業、駅ビル事業、ホテル事業、警備業など。数年間はかなり失敗した事業もありましたが、10年ほど経つと、モノになる事業もいくつか出てきました。
鉄道以外の事業展開に大きな力となったのが、強烈な危機感を募らせた若手社員たちです。もともとみんな鉄道マンで、駅社員や電車運転士、車掌、保線係など、現場の社員が中心です。彼らが夢に向かって立ち上がったのです。
『夢みる勇気』(唐池恒二、リベラル社)
新規事業のプロジェクトチームのメンバーを社内公募すると、われもわれもと手をあげて参加してくれました。顔ぶれをみると、もとのそれぞれの職場のホープと目された若手社員ばかりです。もとの職場に残ったほうが彼ら自身にとっては居心地がよかったかもしれません。が、彼らはあえて苦労するほうを選んでくれたのです。
これも、逆境と夢の力と言えるでしょう。
【3秒アドバイス】
赤字鉄道路線という言葉をよくニュースで耳にします。公共交通業はそれだけ難しいものです。東京や大阪のような大都市圏もなく新幹線もなかったJR九州。その躍進の極意は「逆境と夢」。このテーマが著者の講演会では大人気となっています。







