【大人の教養】ホルムズ海峡を「石油の急所」に変えたイギリスの暗躍とは?
古代から中東とインドを結ぶ海の要衝だったホルムズ海峡。だが、この海峡が「石油の急所」として世界経済を揺さぶる存在になった背景には、単なる地理条件だけでは語れない歴史がある。油田開発、英露協商、そしてイラン南東部への経済介入――イギリスはいかにしてペルシア湾への道を押さえたのか。その暗躍をたどる。

【大人の教養】ホルムズ海峡を「石油の急所」に変えたイギリスの暗躍とは?Photo: Adobe Stock

ホルムズ海峡の歴史をひも解く

 ホルムズ海峡は古代から中東とインドを結ぶ重要な海上交通路であり、シュメール人の記録にも、バーレーンとされるディルムンやインダス文明を指すメルッハが登場します。ディルムン衰退後も、ゲラやラフム朝、イスラーム勢力下のムスリム商人が交易を担い、バスラは港湾都市として発展しましたが、反乱やモンゴル、ティムールの侵攻で荒廃しました。

 その後、要衝に位置するホルムズ島が台頭し、11世紀以降、オマーン系移住者によるホルムズ王国の中心となります。王国は13世紀にはペルシア湾両岸やアラビア海沿岸へ勢力を広げ、国際商業の中心として繁栄しました。しかし16世紀、アジア進出を進めるポルトガルが交易網に割り込む拠点としてホルムズ島を狙い、1507年に占領。1515年には再占領して要塞を築き、オマーン海岸の諸都市も支配しました。

 これに対し、17世紀にサファヴィー朝のアッバース1世はイングランドと結び、1622年、合同軍でホルムズ島を攻略します。アッバース1世は対岸にバンダレ・アッバースを築き、同市はサファヴィー朝の主要貿易港となりました。一方、ホルムズ島は地位を失い、歴史の表舞台から退いていきます。

 欧米諸国の進出により、ペルシア湾とホルムズ海峡の役割も変化しました。大航海時代以降、世界規模の商業航路が整備されると、インド洋交易路としての重要性は相対的に低下します。さらに17世紀以降、湾岸では海賊行為が目立ち、現在のアラブ首長国連邦沿岸は「海賊海岸」と呼ばれました。1819年、インド航路の安全確保を狙うイギリスが討伐遠征を行い、湾岸のアラブ諸国はイギリスの支配下に置かれます。1869年にスエズ運河が開通すると、紅海と地中海が直接結ばれ、ペルシア湾とホルムズ海峡の地位は一時的に失墜しました。

油田の発見。そして、イギリスの暗躍

 ペルシア湾とホルムズ海峡の価値は、20世紀に再び高まることになります。それが、相次ぐ油田の開発です。欧米諸国では、19世紀後半より第2次産業革命が進展し、これにともない石油の需要が大いに高まります。

 第2次産業革命とは、軽工業が中心であった18世紀半ばの産業革命(第1次産業革命)に対し、鉄鋼、石油、化学といった重化学工業への産業構造の転換を指し、とりわけ燃料として注目を集めたのが、石油だったのです。

 既に1890年代にフランスがペルシア湾一帯に石油の埋蔵量が豊富であることを突き止めており、イギリスはフランスによる開発が本格化する前に、この地での油田開発を急いだのです。加えてイギリスは19世紀より、ロシアの南下政策への対抗措置(とりわけ中央アジアにおけるグレート・ゲームの一環)として、イランのガージャール朝(1796~1925)への経済介入を進めていました。下図を見てください。

【大人の教養】ホルムズ海峡を「石油の急所」に変えたイギリスの暗躍とは?出典:地図で学ぶ「深読み」世界史

 しかし、ドイツの脅威に対抗するためイギリスとロシアは協調関係に転じ、1907年に英露協商が結ばれ、一連の英露対立は解消されます。この英露協商ではガージャール朝における両国の勢力圏が定められており、イギリスは南東部を勢力圏としたことでホルムズ海峡の両岸を押さえ、ペルシア湾への交通路を掌握します。

(本原稿は『地図で学ぶ「深読み」世界史』を一部抜粋したものです)