キリスト教といえば、隣人愛や平和の教えを思い浮かべる人は多いでしょう。ところが中世ヨーロッパには、修道士でありながら武器を取り、異教徒と戦った人々がいました。なぜ「祈る人」が戦場へ向かったのか。その背景には、12世紀の神学者ベルナルドゥスが広めた、信仰を守るための暴力は許されるという論理がありました。十字軍を支えた教会の答えをたどると、信仰の名のもとに戦争が正当化されていく、ぞっとする歴史が見えてきます。

【大人の教養】「教会がなぜ戦うのか?」十字軍を生んだカトリックの怖い理屈Photo: Adobe Stock

十字軍は、カトリックへの改宗運動でもあった

 十字軍は、エルサレム奪回に限らず、中世ヨーロッパにおける「異教徒との戦い」全般を意味する運動でした。その思想を支えたのが12世紀の神学者クレールヴォーのベルナルドゥスで、彼は教会の敵への武力行使を正当化し、巡礼と結びついていた十字軍を戦争へと変えていきました。

 第1回十字軍の背景には11世紀の巡礼熱があり、ローマ、サンティアゴ・デ・コンポステラ、エルサレムが三大巡礼地とされました。なかでもサンティアゴは比較的安全な巡礼地として重要性を増し、イベリア半島のレコンキスタとともに聖ヤコブ信仰も広がります。巡礼路が整備されると、宿場や小教会が各地に置かれ、人の往来が活発になりました。

 やがて巡礼路は交易路としても機能し、行商人が各地を移動するようになります。もともと中世ヨーロッパは荘園を基盤とする自給自足的な封建社会で、広域交通の整備は進みにくい状況でした。しかし巡礼の活発化を契機に陸上交通が整い、11世紀以降の商業発展を支えます。さらに十字軍遠征によって遠隔地を結ぶ商業ルートは強固になり、13世紀には広域商業圏が形成されていきました。

騎士修道会――「戦う修道士」と巡礼

 さて、巡礼熱の高まりは1096年に第1回十字軍という形で発露されることとなり、この十字軍は聖地エルサレムの占領に成功します(1099)。

 この結果、シリアあるいはレヴァント(ここではいずれも地中海東岸一帯を指す歴史的地名)に、エルサレム王国、アンティオキア君侯国、トリポリ伯国、エデッサ伯国といった十字軍国家(ウトラメール)が形成されることになります。

 一方、第1回十字軍に参加した諸侯の多くは、所領の確保を目的に新天地へと向かったため、目的の土地を手にできなかった諸侯らは次々とヨーロッパに帰還します。こうなると十字軍国家を周囲のイスラーム勢力から防衛する人手が不足することとなり、これは聖地へと向かう巡礼の安全確保の上でも懸案となりました(下図参照)。

【大人の教養】「教会がなぜ戦うのか?」十字軍を生んだカトリックの怖い理屈出典:地図で学ぶ「深読み」世界史

 このため、十字軍国家防衛や聖地巡礼者の守護を目的に、12世紀より騎士修道会が発足するようになります。そもそも「修道院」とは俗世間から距離を取り、キリスト教の修行に励む場です。修道院は共同生活が前提となり、6世紀のベネディクト会の発足以降、ローマ教皇より認可を得た修道組織は「修道会」と呼ばれるようになります。

 修道院・修道会の構成員である修道士は「祈り、働けOra et Labora」、すなわちキリスト教の信仰と自給自足のための労働(おもに農作業)を、その活動の支柱とします(ただし13世紀には労働によらず都市部で寄進を受け信仰実践に励む托鉢修道会も出現)。

なぜ暴力が容認されたのか?

 騎士修道会は、この「祈り、働け」のうち「働け」=労働の代替として異教徒との戦いに従事するもので、その構成員は修道士でありながら騎士(戦闘員)であるという、二重の性格を有するものでした。ここで重要なのが「異教徒との戦い」という点で、本来キリスト教は隣人愛を旨とする教義ではあったものの、カトリック教会は「異教徒から信仰を守る」場合に限り(いわば建前として専守防衛の範囲内で)暴力を容認したのです。

(本原稿は『地図で学ぶ「深読み」世界史』を一部抜粋したものです)