これら「個物」は言葉なくしては存在しない。つまり、まず個々の事物があってそれを指示する言葉ができるのではなく、まず言葉があって、分節があってはじめて「個物」の像が立ち上がるのだ。

持っている言葉が違えば
世界の見え方も変わってくる

 評論家で劇作家だった山崎正和は国語教育をテーマにしたインタヴューで、このように述べている。

「人間は感じたことを言葉にするのではないんです。言葉があって、言葉によって感じるんです。つまり、言葉がなければ、そもそも感じというものが浮かんでこない。例えば『夕暮れ』と『黄昏』とでは違うんですね。朝の早い時間、『朝まだき』と『かわたれ時』。これも違う。じゃあ、どう違うんだと言うと、概念では定義できない。名文の中でたくさんの用例を読んで、ああ、あの気分かと理解しなければ、言葉の理解にならない。逆に言えば感情の細分化というか、感情の厳密な分類、命名というものは、実は言葉が先にあってできるんです」(山崎正和『私の国語教育論』聞き手:山下直「WEB国語教室/大修館書店総合サイト」2019.04.03掲出)

 ここで山崎は「語彙を増やす」ことの意義とその課題とを二つながらに語っている。語彙を増やすということは、世界に対する認識の解像度を上げるということに他ならない。

 先の例でいえば、単に「泣いている」としか認識できなかった人と、段階ごとに「嘆息している」「涕泣している」「嗚咽している」「慟哭している」と認識した人とでは、状況の見え方が違う。

 また、「語彙を増やす」ことの課題とは次のようなことだ。例えば「意味」という言葉の意味は誰もが知っているが、辞書的には「意義」と同義とされている。しかし実際の用例をみると「意義深い」とか「この勝利の意義はデカい」などといわれるように、「意義」は「意味」とは異なって「価値」や「重要性」のニュアンスを強く帯びるようになってきている。

 それは、「意義」を「この語の意義は……」と、「意味」と完全に置き換え可能な文脈で使おうとするとき、ちょっと違和感を覚えるほどである。