もとは完全に同義だった「意味」と「意義」に微妙な異なりが生じている。だが、この違いは辞書には載らない。「たくさんの用例」に接して、ああ、あの感じかと理解しなければならない。それでなくては「言葉の理解にならない」。言い換えれば、その言葉を自分のものにすることはできないのである。
「わかりやすさの強制」が
言葉との出会いを奪う
『会話で差がつく 大人の上級語彙』(宮崎哲弥・SBクリエイティブ)
ただ、ここで急いで断っておくと、辞書が無価値な書物というのではない。辞書は、既成の言語を知るための入口として欠くべからざるものだ。もちろん辞書には限界があるけれども、しかしもし辞書がなければ、私達は多くの言葉を知るための入口にも立つことができないだろう。
世界を認識する精度は、言葉の豊穣さ、多様性にかかっている。言葉が豊かになれば、世界認識も豊かになる。言語の高度化とは、新語・俗語も含めて語彙が増え、認識や表現が多様に、緻密になることだ。
然るに戦後の国語教育、ひいてはメディアにおける言葉遣いについての姿勢は、言語の高度化を妨げ、言葉の進化を阻害する方向性ばかりを示してきた。「平易な言葉」「明快な言い回し」による表現が推奨され、使用語彙をできる限り制限することを良しとする流れが一般化したのだ。
私は一貫してこの「平易さ、簡便さの追求」「わかりやすさの強制」に異を立て、抗ってきた。この思潮こそが現代の語彙の貧困化、言葉の平板化の元凶であると批判してきた。







