もともと、学生サークルが隆盛を迎えるよりも前に、『ウルトラクイズ』では最初期から多くの「クイズ番組荒らし」が活躍していました。たとえば第1回の優勝者・松尾清三は出演時点で、『ベルトクイズQ&Q』『クイズグランプリ』『パネルクイズアタック』といった番組で優勝歴を持つ強豪プレイヤーでした(注4)。

 しかし、クイズ番組荒らしと大学クイズ研究会の会員では、視聴者に与える印象がずいぶんと違ってきます。前者が性別・職業・年齢ともにあるていどの広がりがあるのに対し、後者は男性が大半で、当然ながら年齢もほぼ一定です。『ウルトラクイズ』の制作者たちはその存在をあまり快く思っていなかったようで、放送末期には、予選でクイズ研究会の所属者が間違えやすいような問題を意図的に織り交ぜていたという証言すらあります(注5)。

(注4)『アメリカ横断ウルトラクイズ クイズ王の本』、日本テレビ放送網、1987年、17-18頁。

(注5)TBSラジオ『こちら山中デスクです』2007年8月20日放送回の小倉淳アナウンサーの証言。

強豪プレイヤーは情報共有と
陽動作戦で予選突破を狙った

『ウルトラクイズ』はクイズ王を決める番組であるのと同時に、その魅力は参加者同士の人間ドラマによってこそ支えられていました。「知力、体力、時の運」という番組の合言葉もまた、その意図を明確に打ち出すものです。

 しかし、制作サイドの思惑に反し、クイズ研究会のメンバーは目覚ましい活躍を見せ、増加の一途を辿ることになります。クイズ研究会の面々が勝ち進んでいけたのは、実力もさることながら、彼らが共同戦線を張っていたことも大きな要因でした。

 コラムニストのナンシー関は、雑誌の連載企画『信仰の現場』で、実際に第16回(1992年)の予選に参加しています。そこで関は、「全国各地の大学から我が物顔のクイ研」が集まり、はっぴを着てのぼりを立てている様子に困惑したことを記しています(注6)。

 優勝者の手記によれば(注7)、1次予選では各大学の有力なクイズプレイヤーによって綿密な情報交換が行われていました。参加者同士で解答を相談しあうことが厳格に禁止されていたわけではなく、違反行為とはいえません。とはいえ、このネットワークに加わっているほうが格段に有利であったことは明らかでしょう。

 クイズ研究会の動向は会場で注目を集めており、○×クイズを突破するため、有力者と同じ選択肢を選ぼうとする参加者もいたそうです。しかしそれを逆手にとった戦略も採られ、重要な局面になると、あらかじめ決められていたおとり役が、わざと誤答の選択肢を選ぶこともあったといいます。

 要は陽動作戦で、クイズ研究会のプレイヤーがあえて目立つように間違った選択肢に行き、ライバルを減らそうとしていたわけです。釣られる方が悪いとはいえ、いまであればSNSで炎上しそうな事案です。

 彼らにとって鬼門だったのは運が強く絡む1次予選と成田空港の関門(基本的には1対1のじゃんけん)で、逆にそこさえ突破すれば、チェックポイントで脱落するリスクはそう高くありません。回によっては、上位進出者がみなクイズ研究会の関係者ばかりという事態も起こりました。