たとえば第13回(1989年)の準決勝に残ったのは、それぞれに名門大学クイズ研究会を代表する有力プレイヤー4名でした。準決勝の「通せんぼクイズ」は激戦で、司会の福留も「13年のウルトラの歴史で最高の戦い」と賞賛したほどの高水準の早押しクイズが展開されました。

 しかし皮肉にもこのころ、すでに『ウルトラクイズ』の人気は低迷しつつあったのです。

アメリカへの憧れも
番組の人気も右肩下がりに

『ウルトラクイズ』の視聴率は第7回(1983年)の34.5%を頂点とし、第11回(1987年)には20.4%、第14回(1990年)には15.0%にまで低下します。

 言うまでもなく、視聴率は複合的な要因によって規定される指標ですから、それだけで番組の人気を測ることはできませんし、下がったとしてもその原因がクイズ研究会の台頭とは限りません。

 たとえばこの時期、すでにアメリカ横断というコンセプト自体が、当初ほどの魅力を失いつつあったのは事実です。1985年にはプラザ合意が成立し、急速な円高が進行します。海外旅行者は急速に増え、1985年から1990年にかけて倍増しました。

 渡航先も多様化しており、すでにアメリカの特権性も弱まりつつありました。1980年代前半の経済停滞を抜け出し、バブル期を迎えた日本人にとって、少なくとも象徴的な意味でのアメリカは、かつての魅力をとどめていなかったのです。

(注6)ナンシー関「突撃!ウルトラクイズ」、『信仰の現場――すっとこどっこいにヨロシク』、角川書店、1994年、118頁。

(注7)以下の記述は第13回の優勝者・長戸勇人の著書『クイズは創造力〈理論篇〉』(情報センター出版局、1990年)によります。