転職サイトを開いては閉じ、学び直しの講座を検索しては申し込まないまま。動けないのは自分の意志が弱いからだと考えている人は少なくない。だが、ピーター・F・ドラッカーは1969年の『断絶の時代』で、人が動けない理由を個人の意志ではなく、制度の設計として論じていた。動けなさを自分の責任として引き受ける必要は、本当にあるのだろうか。本連載では、膨大なドラッカーの著作を読み返し、その中から令和の現在に役立つ知を取り出して紹介していく。(構成:ダイヤモンド社書籍編集局)

動けないのは誰のせいか
同僚が辞めていくのを、引き止めも後追いもせず見送った経験はないだろうか。
そうしたことが重なるうちに、人は自分について一つの結論を出す。自分には意志が足りない、という結論だ。
だが、その結論を出す前に確かめておきたいことがある。これは本当に、意志の問題だろうか。
1969年刊行の『断絶の時代』は、第4章で人と資金の移動を論じている。語られているのは、働く人の心構えではなく、経済政策の設計である。
最初に損をするのは会社ではない
この議論には目を引く特徴がある。ドラッカーは人が動けることの必要性を、企業の競争力でも国家の成長でもなく、まず一人ひとりの所得の話として書き出す。
人の移動の自由は一人ひとりの人間にとって必要である。生産的でない雇用は所得も低い。生産的な仕事への移動を妨げることは、結局は低い所得を押しつけることになる。
――『断絶の時代』より
ここでの主語は「経済」ではない。生産的でない場所に人を留め置く仕組みは、その人自身に低い所得を押しつける、と書かれている。
人が動けないとき、最初に損をするのは、その人自身だ。会社でも国でもない。
本書は、生産的な仕事が知識労働となった今日、仕事を楽しみ誇りをもちつつ生計を立てられるとも述べる。失われるのは収入だけではないだろう。
安定を求めるほど不安定に
勤続年数に紐づいて積み上がる設計の中では、動くことは損になる。損になるなら動かない。合理的な判断である。
ドラッカーは同じ構図を、当時のアメリカとイギリスの職能別組合に見ていた。批判は組織のあり方にも、その根っこにある考え方にも向けられている。
技能は変わらないもので、技能をもつ人は同じ場所にいるものだ、という考え方だ。本書はその帰結をこう書く。
技能は不変であって、技能者は固定的存在であるとする職能別組合の考えは、組合員の移動を妨げ、やがて彼らを役に立たない存在にする。
――『断絶の時代』より
守るために動かさない。ところが動かないうちに、技能ごと必要とされなくなる。
本書は、職能別組合が目的とする所得と雇用の安定は、労働力の移動を促進することによってのみ実現されると述べる。目的は正しい。取り違えられたのは手段だ。
安定を求める手が、不安定をつくる。この反転は、組合という言葉を外しても成り立つ。
先ほどの判断も同じ形だ。安定を選んだつもりが、安定から遠ざかっていく。
機会は誰の手を通るか
いま、国が在職者の学び直しに充てる支援策の多くは、勤め先を通って配られている。政府が2023年に示した労働市場改革の指針(「三位一体の労働市場改革の指針」)によれば、企業経由が75%、個人経由が25%だった。
働く個人が主体的に選べるよう、個人経由を高めていく方針も示されている。裏を返せば、機会はいまも動かない前提の経路で配られるということだ。
では、動きやすさは何がつくるのか。本書は20世紀中盤のスウェーデンの例を挙げる。
政府・産業・労働の三者が連携する組織がつくられ、どこに雇用の機会があり、どこで人が余るかを見渡した。新しい仕事のための教育訓練を行い、引っ越しの費用まで援助したという。
提案したのは政府ではなく、労働組合のリーダー(ゴスタ・レーヌ)だった。しかも、失業手当の支給より安上がりだったという。
この設計は、働く人の意志の強さに何も求めていない。動かない理由を、外側から取り除いただけである。
動くための支援が、動かない前提の経路を通ってくるとしたら、動けないのは意志の問題なのだろうか。それとも、経路の設計の問題なのだろうか。
「決断できない」という感覚を、意志の弱さとして引き受ける必要はない。それは、動くと損をするように組まれた場所で下された、ある意味で正確な判断でありうる。
本書の要求は、働く人の側には向いていない。
労働力の移動をして、労働者が恐れるものではなく、彼らの所得を上げ雇用を安定させるもの、したがって彼らが欲するものとしなければならない。
――『断絶の時代』より
本稿で触れたのは第4章の一部にすぎない。制度が人の動きをどう決めるかは、本書で論じられている。






