社外取締役を増やすといっても、実質は数合わせではないのか。この疑いに、ピーター・F・ドラッカーは1946年の時点ですでに向き合っている。しかも彼は「外部の代表を入れる」という案を検討したうえで、私たちの予想とはまるで逆の理由でそれを退けていた。『企業とは何か』から、取締役会という装置に何を期待できるのかを問い直す。本連載では、膨大なドラッカーの著作を読み返し、その中から令和の現在に役立つ知を取り出して紹介していく。(構成:ダイヤモンド社書籍編集局)

ドラッカー 社外取締役

98.8%、それでも残る違和感

 東京証券取引所の集計によると、2025年7月時点で、プライム市場の上場企業のうち独立社外取締役を3分の1以上選んでいる会社は98.8%に達している。2014年には6.4%だった。

 数のうえでは、改革はほぼ完了している。それでも、社外取締役は本当に働いているのか、実際は数合わせではないのかという感覚は消えない。肩書きは立派でも、月に数回の取締役会だけでは、その企業が今まさに何に困っているかまでは分からない――多くの人が一度は感じたことのある違和感だろう。

 この居心地の悪さの正体を、80年前に書き残していた人がいる。ドラッカーが1946年に世へ送り出した『企業とは何か』である。当時アメリカ最大のメーカーだったゼネラルモーターズ(GM)の求めに応じ、彼がアウトサイダーとして1年半その内部に入り込み、経営と組織を調べた記録だ。ここに描かれるGMは、すべて1940年代半ばの姿である。

80年前に退けられた案

 本書が書かれた当時のアメリカでも、取締役会に政府や労働組合、消費者、一般社会の代表を送り込んではどうかという議論が起きていた。外の声が届かなくなった経営陣に、外の代表を入れればよいという発想である。

 ドラッカーはこれを頭から否定してはいない。鉄道会社の取締役会に大手の荷主が入る、公益会社に地域の代表が入る、製薬会社に医師が入る。こうしたケースなら企業に寄与するところも大きいはずだ、と本書は書いている。

 念のために断っておくと、ここで論じられているのは制度の要不要ではない。日本の上場企業には会社法上の設置義務があり、置くか置かないかを議論する段階にはない。問われているのは、その装置に何を期待できるのか、である。

なぜ看板に終わるのか

 そのうえでドラッカーは、この案を退けた。理由は二つである。

第一に、想像力は取締役会の改革によってもたらされる以上に、日常のこととして構造的に必要とされている。第二に、想像力は具体的な状況と問題に関して必要とされている。

――『企業とは何か』より

 ここでいう想像力とは、外の世界の人がどう物を見ているかを思い描く力だ。それは取締役会をいじって足せる量ではなく、日々の仕事の中で構造的に要る。しかも具体的な状況に結びついていなければ、言葉だけで終わる。

 ところが大企業の社外取締役は、ほかに本業を持つ以上、事業を具体的に知ることができない。だからどうしても看板に終わる、というのがドラッカーの見方だった。

 もっと独立性を、もっと社外からという方向に進むほど、事業の具体を知る度合いは下がる。外部性を高めるほど看板に近づくというこの理屈は、現代の処方箋とは逆を向いている。

 だからドラッカーは、現役の経営陣と経営陣OB、大株主に限っていた1940年代半ばのGMの取締役会のほうが賢明だと書いた。ただし同じ段落で、それでも経営幹部が社会から切り離される問題は相も変わらず解決されない、と自ら付け加えている。

経営者は修道院にいる

 ドラッカーが本当に問題にしていたのは、取締役会の顔ぶれではなかった。経営幹部が、仕事の構造そのものによって社会から切り離されていくこと。本書はこれを「隔離孤絶」と呼ぶ。

 仕事以外に人と会う時間がない。情報はとるべき行動との関連でしか届かない。付き合う相手は同類に限られる。本書は、その状態を修道院にたとえている。

 結果として、社会の反応が読めなくなる。フォード社の創業者ヘンリー・フォードは、自社で働く者が労働組合の設立に賛成しうることが理解できなかった。本書はその例を挙げたうえで、こう書く。

調査によってこれらのことを知ることはできない。必要なのは、事実そのものではなく、ほかの者のように事実を見る能力だからである。

――『企業とは何か』より

 足りないのはデータではない。他人の目で同じ事実を見る力のほうが足りない、というのである。

 第一次世界大戦期のフランス首相クレマンソーは、軍人の視野の狭さを皮肉り、戦争は将軍たちに任せるにはあまりに重要だと言った。ドラッカーはこれを反転させる。産業生産もまた、視野の狭い執行者に任せるにはあまりに重要であって、かつ任せざるをえないのだ、と。

 この構造は、役員室に限った話ではないかもしれない。組織が大きくなるほど、情報はとるべき行動との関連で選別され、隣の部署で何が起きているかは見えなくなる。上には何も届いていないという職場の実感と、彼が隔離孤絶と呼んだものは、規模が違うだけで同じ形をしているのではないだろうか。

 本書によれば、これはあらゆる組織に見られる問題だが、大企業では自然には解決せず、特別の手立てが必要になる。中小企業なら、経営幹部は外で起きていることをいやでも目にする。取締役会も、株主や取引先のものの見方を理解させる役割を実際に果たしている。大企業では、その機能が失われた。期待が取締役会に集まったのは、そのためだ。

PRは何のためにあるか

 では本書によれば、GMは取締役会の代わりに何を置いていたのか。取締役会ではなく、日常業務の側だった。ユーザーの見方を経営陣へ届けるユーザー調査部、ディーラーの声を吸い上げる仕組み、工場のある地域との関係、そしてPR、すなわち広報の業務である。

 PRは普通、外へ発信する技術と受け取られている。ドラッカーの指摘は正反対だ。PRの目的は発信ではなく受信にあるという。

したがってPRの目的は、本社と事業部双方の経営陣に対し、社会の反応とその理由を教えることになければならない。

――『企業とは何か』より

 ただし本書は、ここで胸を張らない。これらの活動の主たる目的が受信であることが、当のGMでもまだわかっていないという。

 本書によるGMへの評価は、まず厳しい。GMが解決の道を見出したとはいえず、問題の重要性の認識すらおぼつかない、という。そのうえで、社会からの隔離が特に危険ないくつかの分野では実行可能な解決策を見出した、とも述べる。ここまで見てきたユーザー関係やディーラー関係、地域との関係、そしてPRが、その解決策にあたる。

 とはいえ、その中身は一様ではない。地域との関係にいたっては、うまくいっているのはオハイオ州デイトンただ一都市にとどまり、その取り組みさえ第一歩にすぎないとされる。「解決策」という言葉が指すものは、まだこの程度の幅しか持っていない、と本書の評価は厳しい。

 その硬直ぶりを、ある経営幹部の言葉が如実に示している。GMのこの幹部は、本書刊行後まもなくこう言い返したという。「20年かけて練り上げ、手直ししてきた。考えうる最高のものである。何ならば重力の法則を書き変えるよう提案されてはいかがか」。20年の実績を物理法則と同列に置くこの言葉こそ、外の目を想像する力が失われた状態を、皮肉にも自ら体現していたのではないだろうか。

 結びの一文には留保がある。もしうまくいけば、これらの活動は経営陣にとって避けがたい隔離孤絶の危険を解消する貴重な手立てになりうる、と本書は書く。80年後の読者が受け取れるのは、答えではない。問題の置き場所が取締役会ではなかった、という一点だけである。