「飛行機乗り」を拒んだ蔦も
特攻隊行きを命じられた
だが蔦は、“ほとんど”の道を選ばなかった。飛行学生を志望しなかったのだ。それゆえ地上配置の要務士官の予定者として、土浦ではなく鹿児島に送られた。
しかし、戦局は目まぐるしく変わる。人数が増えた鹿児島で再検査を行い、一部の要務士予定者が空中勤務者として土浦へ送られることになった。そこに蔦も含まれていたのだ。「飛行機乗りになりたくなかった」蔦だったが、特攻隊になることを約束された土浦へ転属となった。
土浦で飛行専修の基礎教程を受けた学生たちは、最後に適性によって操縦と偵察に分けられる。その多くは突貫で空中勤務者に育成され、練度が満たないままに特攻隊員として沖縄戦に投入された。
話はここで終わらない。隆司によれば、蔦には2度、出撃命令が下されたそうだが、いずれも飛行機の故障により、紙一重で生き延びられた。
だがそれ以上に奇跡的なのが、要務士官として鹿児島に残っていた場合も、生き残る確率は極めて低かったということだ。なぜなら、要務士官は地上業務がメインとされていたが、現実には戦局の悪化によりフィリピンをはじめ南方の戦場に送られ、その多数が戦死したからだ。
たられば、に意味はない。だが、すんでのところで蔦が生き残ったことは確かだ。
蔦は生涯、戦争の悪夢にうなされた。
《ワシは、出陣前に飛行機がなくなり命びろいしたが、いまでも夢をみる。250キロ爆弾を積んで敵艦に突っ込もうとするが途中で墜落してしまう、そして自爆するんじゃ。なんど同じ夢を見たかわからん。そのたびに夜中に飛び起きてしまう》(『現代』1983年6月号)
終戦を迎えた日本は経済再建へと邁進した。新聞、ラジオ、あるいは軍隊の中で、士気を高めるために発せられていた威勢のいい言葉は幻のように消えた。
戦前・戦中の価値観は崩れ落ちた。それまで敵国を批判していたメディアは、一転して戦争関係者を糾弾した。戦中の無謀な作戦とその責任者を批判するだけではなく、社会に馴染めない元特攻隊員が軽犯罪に走れば、それを「特攻くずれの成れの果て」といった類いの言葉で責め立てた。







