池田高校・蔦文也元野球部監督 Photo:SANKEI
池田高校を甲子園の強豪へと押し上げ、「攻めダルマ」の異名で知られた名将・蔦文也。その人物像を追っていた筆者に、次男は「父を変えたのは戦争でしょうね」と語った。蔦が生涯ほとんど口にしなかった戦争体験とは、どのようなものだったのか。そして、「死ぬのが恐しうて」と飛行機乗りになることを拒んだ蔦は、なぜ特攻隊行きを命じられることになったのか。※本稿は、スポーツライターの田中 仰『監督、神になる 池田高校 記憶の衝突』(文藝春秋)の一部を抜粋・編集したものです。
のちの「攻めダルマ」に
似つかわしくない細身の少年
6枚の集合写真がある。
朝日新聞フォトアーカイブに残されている白黒写真の撮影日は1940年で、タイトルに「第26回大会 徳島商の選手集合写真」と記されている。そのうち4枚で、蔦文也と思しき人物は列の端にいる。中央に並ぶ屈強な選手たちに比して線が細く、背丈も低く見える。
それらとは別に、主将と2人で並んだ写真もあった。その人物はいかにも実直そうな、静かな面持ちでレンズをまっすぐに見つめている。のちに高校野球の枠を超えて社会現象を巻き起こすことになる、蔦文也の高校時代を収めたものである。
16歳の蔦と、60歳の蔦。徳島商業の野球部員であった蔦と、甲子園連覇で徳島の英雄になった蔦。その44年間をつなぐために、まず実子に話を聞けないかと考えた。
早速、次男の隆司に取材の打診をした。趣旨を伝えたが「野球部のことも父のこともあまり知らないよ」と返された。口調は柔らかいが、取材に対して乗り気でないことがうかがえた。しかし、完全に拒絶されているわけではなさそうだ。
とくに蔦家の話、蔦の生誕から池田を強くするまでの過程を知りたいのだと、わたしは率直に疑問をぶつけた。ややあって「まあ父を変えたのは戦争でしょうね」と隆司は言った。
そして「知っている範囲なら」となんとか承諾をもらえた。
戦死の可能性が高い
飛行学生を蔦は拒んだ
戦時中、蔦の目に映った風景はどのようなものだったのか。
学徒出陣はまず、召集された時期に悲惨を見る。徴兵猶予が停止されたのは、1943年10月であった。その翌月、勝利を確信した連合国は、カイロ会談、テヘラン会談で“戦後”の話し合いをしている。つまり歴史的に見れば、日本の敗戦が極めて決定的となった局面で学生は召集された。
1943年12月10日に海軍へ入団した学生は総員3323名いた。彼らは日本海軍で最下位の階級にあたる2等水兵を拝命した。本籍地によって武山(横須賀)、舞鶴(京都)、大竹(呉)、相浦(佐世保)の海兵団に分けられ、基礎教育を受ける。その後、飛行機の操縦、あるいは偵察する要員として、半数以上が土浦へ送られた。
蔦の配任先は、佐世保→鹿児島→土浦→静岡→姫路→百里ヶ原(茨城)であった。2等水兵として佐世保で過ごしたあとに蔦は鹿児島へ送られている。飛行専修者たちが土浦へ赴くなかで、なぜ鹿児島だったのか。
その答えが記されていたのは、東北大学在学中に学徒出陣を経験した脚本家・須崎勝彌の書籍であった。須崎が池田高校を訪ねた際、初対面の須崎に対して蔦はこう吐露したという。
《私は死ぬのが恐しうて、飛行機乗りにはなりとうなかった》(『蔦文也の「男の鍛え方」』須崎勝彌)
同書によれば、鹿児島へ送られたのは要務士官の予定者であった。飛行要務士官は主に地上で作戦の企画、遂行、管理、記録などの任務を担った。
ある元海軍予備学生が明かした当時の記録によれば、戦死の可能性が高いとされていたのが、空中勤務者である操縦員・偵察員であった。
《飛適と判定された者はほとんどが第1志望に飛行学生を選んだようだ。飛行科は戦死の確率が格別に高いと一般に信じられていたが、すでに海軍の人間となった以上、いまさら卑怯未練の振舞はすまいという思いであった》(『学徒特攻その生と死』土居良三編)







