そうした社会への恨み言も、戦時中に体験したことの詳細も、蔦は家族や知人、メディアに数少ない機会を除けば、話さなかった。ほとんど黙した。

「父を変えたのは戦争でしょうね」隆司はそう言った。

 戦争は、そして終戦直後の空気感は、白黒写真の青年から何を奪ったのか。

「豪快な攻めダルマ」の
素顔は繊細だった

「蔦先生はね、ものすごい繊細なんですよ。豪快だとか言われるけれど、その真逆ですね」

 蔦の話を向けたとき、高橋由彦(編集部注/1980年代の池田高校黄金期に野球部副部長と部長を務め、蔦に選手の体作りを任され、筋力トレーニングを導入。池田高校に蔦の功績を称える石碑を建てる際に発起人として奔走するほど、蔦に心酔していた)は第一声でそう語った。

 蔦を生涯覆っていた戦争の影も高橋は間近で見ていた。招待試合で天理高校を訪れたときの回想だ。

『監督、神になる 池田高校 記憶の衝突』書影監督、神になる 池田高校 記憶の衝突』(田中 仰、文藝春秋)

「わし、戦争でここ来たことがある」

 誰かに伝えるふうでもなく、蔦がポツリと呟いたことを高橋は覚えているという(編集部注/海軍は、1943年12月に丹波市町の天理教宿舎を接収し、三重海軍航空隊奈良分遣隊を置いた)。

 高橋は終戦直後に生まれた。直接的な戦争経験者ではないが、蔦が無名から有名になっていく時代、同じ空気を吸いながら育った。

「戦争を経験していない我々から見たらね、蔦先生の青春時代がどれほど屈折したもんやったかちゅうのは想像もつかんよね。甲子園に出るまで、物もない、精神的にも追い詰められとるというような乏しい時代やったからね。渇いた、飢え切った気持ちちゅうかね、そういうものが先生の奥底に流れていたように見えたね」