11人だった野球部が
5倍に増えて失ったもの
山本は高校卒業後、四国銀行へ入行し、同社会人チームで野球を続けた。社会人野球の休日と池田の紅白戦が重なれば、山本は池田町に戻った。控え主体のチームに入って、主力チームを相手に投手を務めた。
野球部の手伝いで池田町に来たときに、蔦を酒席に誘うといつも断られた。酒飲みの蔦が、なぜ行きたがらなかったのかはわからない。それでも池田の高知遠征時には、蔦と酒を酌み交わしたことがある。1980年代初頭の話だ。
「お酒の席で、蔦さんは何か言っていましたか。甲子園で優勝する前だったとすれば、チームに欠けているものを相談したりとか」とわたしは訊いた。
「いや、蔦先生からそういう話はなかったですね。わたしらが現役の頃も、甲子園に何がなんでも出るとかいうことも言わなかったです。お酒を飲んだ時は、野球がどんどん変わっていくとか、そのくらいですかね」
ここまで話し終えて、山本がいちど沈黙した。すでに飲み干した珈琲のカップをテーブルの端に寄せて話しはじめた。
「11人だからできたんだと思います。辞めずに残ったメンバーは別にうまいわけではなかった。でも、本当に野球が好きだったからね。蔦さんの気性に合ったのかな」
山本は卒業してからも10年以上、練習に顔を出していた。その間、一変した野球部の光景も見ている。
『監督、神になる 池田高校 記憶の衝突』(田中 仰、文藝春秋)
1982年夏、池田が初めて優勝した当時の部員数は52人だった。「さわやかイレブン」のおよそ5倍だ。
「私らのときにはなかったサブのチームもできていってね。部員が一気に増えた。すると11人だからできていたことができなくなる。公立校だからコーチの人数を増やすこともできない。50人いるなら、10人に1人として、コーチが5人くらい必要な気がするんですよ。指導者の仕事はいかに生徒を見られるか、そして生徒一人ひとりの本質をつかめるか、だと思うから。部員がどっさり増えると、見れませんよね。だから晩年、蔦先生が講演会によう行っていた(編集部注/一部の野球部員から、蔦は練習や試合よりも講演会での稼ぎを優先していると批判的に見られていた)のは、見きれない部員たちから逃げるようなところもあったんじゃないですかね」







