「技術的な指導を受けた記憶はない」
それでも11人は決勝へ進んだ
蔦から技術的な指導を受けた記憶はない。投手だった山本は自ら練習メニューを考えた。蔦は、何も言わずに、山本の練習をただじっと見つめていた。
土日は練習試合だった。蔦を含めメンバー全員が鈍行の汽車で移動した。高知高校、高知商業、琴平、坂出商。国鉄・土讃本線で移動できる高校にはどこへでも行った。
戦い方も単純明快であった。ピッチャーが3点以内に抑える。バッターは4点以上取る。
コントロールに自信があった山本は、カーブとシュートを主体に、徹底して相手のインコースを攻めた。3点以上取られた記憶はほとんどない。打者が塁に出れば、盗塁、送りバント、スクイズで1点を取る。池田の得点はほとんどがこの形だった。
超攻撃的な打力で一世を風靡した、1980年代初頭の「やまびこ打線」とはまるで異なる野球だ。
蔦が出すであろうサインは、その前から、メンバー全員が手に取るようにわかった。甲子園で見せたホームスチールもそうだった。相手の隙を突いて三塁からホームへ走り、1点を狙うという稀なプレーだ。それを池田は春の甲子園初戦で実行した。函館有斗(北海道)戦、序盤の3回裏にサインが出た。幾度となく練習していたプレーだった。そして、成功した。
「決勝まで行けるとはまったく思わなかった。だが負ける気もしなかった」と山本は回想する。池田は決勝まですべて2点差以内という接戦を勝ち進み、決勝で報徳学園に敗れるも準優勝。蔦はこの快進撃を《無欲の勝利》だったと回想している(『攻めダルマの教育論』蔦文也)。
部員数59人の報徳に対して池田は11人。翌日の新聞を賑わせたのは、敗れた池田のほうであった。
阿波池田駅を発つ時は20人ほどだった見送りが、帰った時は400人規模の出迎えとなっていた。2台の2トントラックに部員が分乗して、凱旋パレードで池田町内を回った。このとき蔦は50歳になっていた。
蔦は最後まで、山本に対して何も言わなかった。
自分で考えた練習に励む姿をただじっと見つめた。社会人野球で活躍し、プロ野球でも投げた蔦である。
それでも何も言わなかった。
「思っとっても言わない。でも見てくれているというのはわかった。理想だったと思います」







