池田高校・蔦文也元野球部監督 Photo:SANKEI
1974年、池田高校はわずか11人の部員で春の甲子園準優勝を果たした。やがて全国屈指の強豪となった野球部は、部員50人を超える大所帯へと変わっていく。「11人だからできた」と当時のエースは振り返る。成功によってチームは何を得て、何を失ったのか。その変化を証言からたどる。※本稿は、スポーツライターの田中 仰『監督、神になる 池田高校 記憶の衝突』(文藝春秋)の一部を抜粋・編集したものです。
蔦が欲しがった有望選手たちは去り
欲しがらなかった山本が残った
池田高校へ進学した山本智久(編集部注/1974年に池田高校が甲子園で準優勝したときのエース投手)は、蔦文也監督が欲しがっていた生徒ではなかった。
「蔦先生は三好郡、美馬郡の中学校を回って、野球が上手な選手に声かけとるんですよ。私が最初に入部した頃は、学年で15人以上いたと思いますよ。けど上手だった子はみんな辞めた。ほんで残った僕のようなメンバーは、先生が集めてきたような子たちやない。でもみんな野球が好きなメンバーが残ったね」
蔦はすでにスカウト活動をしていた。
蔦が池田高校の受験を呼びかける範囲は、池田町を含む三好郡とその隣の美馬郡に限られていた。まだ野球部寮がなかった時代には、数人の生徒を蔦家に住まわせることもあった。
練習の休みは元日の1日だけだった。日没が早い冬場は、授業の合間の昼休みも練習に充てた。
放課後は定時制の授業があったため、教室から蛍光灯の光が校庭に漏れる。そのわずかな明かりを頼りに、なんとか内野ノックを行った。
しかし、外野ノックとなれば、部員はボールが見えない。それゆえ、昼休みの時間を利用した。
昼休みまで練習をする部活は他になかったため、面白がってボール拾いに協力する生徒もいた。先生はいつ休んでいるんだろう。こんなに野球ばかりやっていて大丈夫なのだろうか。高校生の山本は不思議に思った。
午前中に降っていた雨が午後に上がった日、蔦の姿は決まってグラウンドにあった。その様子を山本は教室から眺めた。ズボンの裾をまくり、スポンジと柄杓とバケツを手に、蔦はグラウンドのくぼみに溜まった雨水を吸い取っていた。
手作業では吸水しきれないほどグラウンドが水浸しになっていれば、蔦の号令はこうなる。「河原へ集合だ」
三好病院(編集部注/徳島県三好市池田町にある医療機関。後年、大腸がんと肺がんで入院した蔦は、ここで最期を迎えた)の近く、吉野川沿いの河原で練習が行われた。水はけがよく、バッティング練習もノックもできた。河原近くには部長・白川進(編集部注/池田高校の国語科教諭。1972~1974年、1979~1986年にわたり、野球部長として蔦を支えた)の自宅があり、そこに特別練習用のボールが保管されていた。
蔦の熱量とは裏腹に
選手は次々と辞めていった
蔦が声をかけて入学した、山本の同学年の有望生徒は、夏までにそのほとんどが退部していた。次の年には、四国大会優勝経験を持つ池田中学野球部メンバーが入部したが、練習に耐えられず、1人また1人と野球部から去っていった。
白川の著書によれば、主力メンバーを引き留めるために蔦は、弁当を食べさせたり、機嫌を取ったりと、腐心していたという。が、残るメンバーはついに11人になった。
山本ら部員は蔦のことを陰で「親分」と呼んでいた。山本が蔦と直接話した記憶はほとんどない。人生の指針となった蔦の言葉もない。それでも山本の脳裏には、鮮明に浮かぶ1枚の「絵」がある。
テスト期間中の部室。部活動の練習が禁止されている間も、バッテリーだけは蔦から特別練習が課されていた。練習内容が記された黒板の隣に蔦が座っている。何をしているのだろうと目をやると、蔦は背中を丸めて、傷んだボールを縫っていた。
練習終わりに1球でもボールが足りないと蔦は怒った。部員は見つかるまで探した。
金も物もない時代だった。公立校の部活予算などたかが知れている。1年で4、5万円程度だった。用具はグローブだけ支給してもらったと記憶しているが、どこから費用が出ていたのかはわからない。ボールも貴重な品だった。傷んだ球が増えると、一式まとめてメーカーへ送り、革が張り替えられて戻ってきた。新品を購入するより安価だったためだ。







