あの一瞬を蔦文也は見逃さなかった。他者はそう信じた。偶然ではなく、そこには蔦の意思があったのだ、と。
そのような視線を蔦に送ったのは、対戦校だけではない。「蔦は見ていたのだ」と世間も信じた。
「甲子園決勝の日、朝食のときに箸で食器をチーンチーンって叩きながらこう言うてました。『今日の決勝、頑張ってください皆さん。わしが茶碗を叩きながらこう言えば優勝するんじゃ』って。普段どれだけキツイこと言われても、大人がそんなことを信じているなんて知ったら、こっちも笑ってまうやん。蔦さんって、実際はそういう人なんですよ」
蔦文也を神様にしたものは2つあった。
池田が甲子園で勝ったという厳然たる事実と、優れた蔦の指導が優勝させたに違いないという他者の思い込みである。
「馬淵監督を護ったのは蔦さん」
死して25年も続く「神様」の物語
取材中、タクシーで徳島を移動しているときだった。
何気なく会話を交わしていた運転手と蔦文也の話になった。彼の地元は徳島で、出身高校は高知の明徳義塾だという。
「お客さん、知ってますか?(1992年夏の甲子園で)松井秀喜への連続敬遠で、明徳の馬淵監督が猛烈なバッシングを受けたでしょう。あれ、誰が収めたと思います?」
「知らないですね。誰なんですか?」とわたしは尋ねた。
「あれね、蔦さんなんですよ。馬淵監督を護ってくれた。蔦さんがメディアに擁護するコメントを残したら、批判の声がパタッと止んだ。卒業生としてね、私は蔦さんに感謝してもしきれんのです」
星稜・松井秀喜に対する明徳義塾の5打席連続敬遠策について、蔦が何らかのコメントを残した記事は読んだことがあった。だが、蔦の言葉が明確な「擁護」であったという覚えはなかった。
『監督、神になる 池田高校 記憶の衝突』(田中 仰、文藝春秋)
その後、資料を確認してみると、蔦の言葉は次の一言であった。
《勝負の世界にいる人はああいうことをするかもしれない》(『高知新聞』1992年8月17日付)
あの蔦さんが、直接的な批判の言葉を発しなかった。新聞では「擁護派」の1人に挙げられている。気づけば、騒動は収まりつつある。
となればそれは、絶対に蔦さんのおかげに違いない……。
うれしそうに語った運転手の笑顔は、わたしにかすかな寂しさを与えた。
死して25年経った今も、蔦は神様であり続けているのだ。







