池田高校・蔦文也元野球部監督 Photo:SANKEI
甲子園で3度の優勝を果たした池田高校。そのベンチに座る蔦文也監督には、対戦相手の名将さえ一挙手一投足を警戒する独特の存在感があった。ある試合では、相手監督が「ほんの一瞬」目を離した間に勝負が動いた。その出来事を含め、勝ち続けた蔦の周囲では、いつしか「神様」の物語が生まれていった。元エースの証言から、その過程をたどる。※本稿は、スポーツライターの田中 仰『監督、神になる 池田高校 記憶の衝突』(文藝春秋)の一部を抜粋・編集したものです。
甲子園、明治神宮、都市対抗を
制した男が語る蔦文也の真相
2026年3月。大阪駅では袴姿の女性があちこちに見られた。大学の卒業式なのだろう。
わたしは梶田茂生と会った。
場所は夏の甲子園の組み合わせ抽選会が行われるビル近く、路地裏の小さな喫茶店だった。
店に入ってきた梶田は、スーツ姿によく焼けた肌、人当たりの良さそうな風貌が印象的だった。席についたところで、ホットコーヒーを2つ注文する。
梶田は、森桂一郎、井上力と同学年で、1986年春の甲子園で優勝したチームのエースだった。高校卒業後は筑波大学から社会人野球の日本生命へ進んだ。大学野球で明治神宮大会、社会人野球で都市対抗野球という、それぞれの最高峰の大会で優勝した経験をもつ。取材の3カ月前に退任するまでの4年間、日本生命硬式野球部の監督も務めた。申し分のない経歴だ。
取材中に、「梶田さんは池田野球部の監督はやらないのですか?」と質問すると、「無理無理。息子を大学に入れたし、そんな蓄えないよ。私立やったら考えるけど。俺も老後の金が足りんわ」と一笑に付した。
アマチュア野球を熟知する梶田と、蔦について話し合いたかった。
数々の成功を収めてきた男とは思えないほど、わたしの目に梶田は無邪気に映った。話しながら、とにかくよく笑うのだ。
そして笑うときれいな三日月型になる目が、彼の邪気のない印象を強めた。その笑顔は、何かをごまかそうとか、煙に巻こうといった類いのものではないように感じられた。
蔦文也に初めて会ったときのことを、梶田はこう語る。
「僕が池田に入った時、蔦文也はすでに神様でした。よう覚えとるのが手です。分厚いんですよ。背は高くなかったけど、でかくてごついし。60歳を超えた人の体格には見えんかった。それにあのワイルドなシルバーヘアでしょ」
そして、思い出の中に遊ぶように、楽しげに続けた。
「あの人はとにかくボールを飛ばすのが好き。だってキャッチボールが練習メニューになかったんだから。ありえんでしょ?フェンスにダイレクトで打球を当てたら明日も打たしたるぞ、とか言ってね。そんな練習だったもんだから、池田野球部の卒業生は上の世界で苦労するんです。基礎があかんから」
「蔦さんがベンチにいれば勝てる」
その思い込みが選手を変えた
この日わたしは、1つの謎について、梶田に訊きたかった。
甲子園で池田が無類の強さを見せた理由だ。
「高校野球は、思い込みですよ。蔦さんがベンチにいれば勝てるという思い込み。不安を感じながら試合に出るのと、何かを本気で信じ込んでプレーするのは、子どもの殻の破れ方が違うからね」
高校野球の勝敗は、選手たちの精神状態に大きく左右される。
1つのプレーで格下校が破竹の快進撃を見せることもあれば、優勝候補が嘘のようにエラーを重ねて崩れていくこともある。
そして、名門校独特の威圧感は、甲子園全体に一種異様なムードをもたらす。
映像で見た甲子園の蔦は、たしかに絵になった。歴戦の老将のようでもあった。
「練習にいると怖いし、県大会でも怒鳴る。でも甲子園では、どっしり座ったままでした。試合中、その蔦さんをね、対戦校がよう見とるんですよ。相手の選手たち、監督まで、チラチラチラチラ、蔦さんを観察していた。その様子がようわかりました。なんかするんちゃうかって、勘ぐるんですよね」







