日本では「太平洋戦争」として学ぶ真珠湾攻撃から終戦までの歴史。では、アメリカではこの戦争はどう語られているのか。日本軍の進撃、ミッドウェー海戦での反転、そして原爆投下。同じ出来事でも、立つ場所が変われば見え方は大きく変わる。アメリカ人の目線から見た太平洋戦争の流れを『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からのアメリカ史』から紹介する。
太平洋戦争
1941年12月、日本軍は真珠湾を攻撃したのとほぼ時を同じくして、グアム、ウェーク島、フィリピンのアメリカ軍基地を攻撃した。フィリピンでは各地に攻撃を広げ、やがて首都マニラを占領した。そして、タイ、香港、マラヤ(現在はマレーシアの一部)、ビルマ(現在のミャンマー)にも侵攻する。
数カ月にわたる戦闘ののち、アメリカ軍司令官のダグラス=マッカーサーとその家族、数人の側近たちは、オーストラリアを守るためフィリピンを離れるように命じられた。そしてフィリピンは、日本に降伏した。
フィリピンのバターン州に残っていた兵士たちは捕らえられ、およそ100キロも離れたバターン半島の捕虜収容所まで、徒歩による過酷な移動を強いられた。これにより、数百人のアメリカ人と数千人のフィリピン人が命を落とした。この出来事はバターン死の行進と呼ばれるようになる。
戦況の転換
1942年4月、アメリカ軍は東京などを空襲した。戦況は大きく変わらなかったけれど、アメリカ軍の士気を高めることになった。珊瑚海海戦では、アメリカ太平洋艦隊のチェスター=ニミッツ大将の力を借り、日本がオーストラリアに到達することをはばんだ。
ニミッツ大将は、日本軍の暗号による通信を傍受したのだ。暗号の解読は、連合軍が1942年6月4日のミッドウェー海戦に備えるうえでも役立った。この海戦でアメリカ海軍は、日本軍の航空母艦4隻を撃沈し、アメリカに大きな勝利と転機をもたらした。
マッカーサーとニミッツは、日本へのさらに大規模な攻撃に向け、空軍基地を確保するアイランドホッピングと呼ばれる戦略をとった。つまり、小さな島を占領しては、それを拠点にしてほかの島を占領して、フィリピンと日本に近づいていく戦略だ。時間はかかったけれど、効果は大きかった。1942年8月から1943年2月にかけて、海兵隊がガダルカナル島を占領するために戦った。1944年10月のレイテ沖海戦では、連合軍は日本の艦船をほぼすべて破壊した。連合軍は1945年3月にマニラを解放し、日本へと向かった。
日本への到達
連合軍は日本のふたつの島を標的にした。1945年2月に硫黄島、3月に沖縄で戦闘を開始した。日本軍は優位に立とうともがき、神風特攻隊によって連合軍の艦船を攻撃したけれど、連合軍は前進を続けた。
原爆
日本はなかなか降伏しなかったため、連合軍は全面侵攻を検討した。ところが、アメリカは1945年7月16日に、人類初となる原子爆弾の実験に成功していた。これは、科学者のJ=ロバート=オッペンハイマーが中心となって取り組んだ、「マンハッタン計画」と呼ばれる3年間の開発によって実現したことだった(マンハッタン計画は、ローズヴェルトがアルベルト=アインシュタインをはじめとする科学者から、ドイツが核開発を進めていると警告されたことを受け、立ち上げた計画だった)。トルーマン大統領は、たった一発の原子爆弾で何千人もの民間人が亡くなる可能性があることを知っていたけれど、それこそが戦争を終わらせ、数えきれないほど多くのアメリカ人を救う正当な手段だと考えていた。トルーマン大統領はポツダム宣言を発し、日本が降伏しなければ、アメリカが「迅速かつ完全な壊滅」をもたらすとした。
日本は、これをいつもの脅しにすぎないと思い、降伏しなかった。1945年8月6日、B-29爆撃機エノラ=ゲイが、広島市に原子爆弾を投下した。一瞬にして、少なくとも7万5000人の命がうばわれた。それでも日本は屈しなかった。8月9日、アメリカは長崎市に再び原子爆弾を投下し、約4万人の命が奪われた。これらの爆撃を生き延びた人々の多くは、その後、放射線や重度のやけどが原因で亡くなるか、深刻な健康問題や障害を抱えて生きることになった。
戦争の終結
1945年8月14日、日本はポツダム宣言を受け入れることを決めた。翌15日、そのことが玉音放送で国民に伝えられた。連合国側では、8月15日が対日戦勝記念日(VJデー)とされた(アメリカでは、時差の関係から、8月14日をVJデーとすることもある)。9月2日、日本は降伏文書に署名し、第二次世界大戦は正式に終わりを迎えたのだ。








