人間と言うものは、いつでも、ものを考えるときに、一ばん理想的なことを目ざして考える。こうするのが一ばん好いと思うと、それが自分にとって、多少は難しいようなことでも、やって見たいと思うものであるが、しかし、実際には、なかなか、それが出来ないようである。
そのときに、ぱっとその考えを捨ててしまうのは惜しい。もう少し、ほんのもう少し、ほんの一ところでも好いから、相手の好いところを発見する、と言うのが好いと思うのである。
同情されるほど
一人の生活もわるくない
私は何度も離婚した事があるので、離婚と言うより、男に捨てられた事があるので、世間の人は、先生は、あんなに相手の方にお尽しになられたのにと同情する。しかし、私は自分勝手に相手にして上げたのだから、その相手も、さぞかし迷惑な事がたくさんあったのではないかと思うのである。結果は誰の責任でもなく、自分の責任の上で起こった事だからである。
私と別れた人たちは、それぞれ、また、自分に合った人を見つけ自分の好む生活を送る事になるのである。残された私も、また、自分の好む生活をし、仕事にも熱中し作品の数も多くなる。人それぞれそれなりに好い事もある訳で、同情されるほど、一人の生活もわるいと思っていないのである。
自分の生きてきた
すべてのときが、花のとき
私はね、世間でいうところの結婚適齢期と言いますのは、肉体的生理的に大人になった男女の年齢のことをあてはめているにすぎないと考えています。
しかし、若いというだけが、美しさの条件ではありません。いくつであってもその時どきの美しさがあるのです。「美しさ」の中には、外面的なものだけではない、いろいろなものが含まれているからです。それは知性や経験、勇気、センス、優しさ、といった人間の持つ性質のすべてが総合されたものなのです。
20歳には、20歳の、30歳には30歳、そして40歳には40歳の美しさがあるのです。60歳だっていや95歳の私にも、或る美しさがあるはずです。
『宇野千代のことば 書いて、恋して、おしゃれして』(宇野千代、平凡社)
私は、時どき、自分のことをかえりみることがあるのですが、私は、自分の生きて来た、そのすべてのときが、花のときであったと思っています。
そして、いつでも、自分の一生の間で、今の自分が一番好きだと思っています。
ですから私は、いくつになっても、その境遇におかれたら、また、結婚するつもりでいるのです。いくつになっても、この今が、自分にとっては「結婚適齢期」であると思っているのです。
恋愛をやめることは
100歳になってからでも遅すぎない
自分には、まだまだ、人を好きになる気持ちが、つまり、恋愛感情みたいな気持ちが、だいぶん残っているようなことを発見して、自分でも、これは気がつかなかったなあ、と思い、面白いことに思い始めたのですよ。
[恋愛対象として]人間をやめることは、100歳くらいになってからでも遅すぎない、と言うのが、現在の私の心境なのですよ。おかしいとお思いですか。







