あなただって、仮に「明日、自分の培ってきたノウハウをすべてマニュアル化して提出しろ」と言われたら、潔くそれに応じられるだろうか。「すべてをさらけ出したら、自分はもう不要になるのではないか」という不安が、あなたの足を止めはしないだろうか。

 組織という「公」の舞台の裏側では、このように個人の利害に基づいた、目に見えない「貢献と報酬の交換関係」が網の目のように張り巡らされている。この水面下の力学こそが、組織の公式なルールや適材適所の理念を、内側から空洞化させていくのである。

目に見えない恩義の貸し借りが
日本の組織を動かしていた

 ところで、こうした「技」を後進に伝承する際の見返りは、目に見える金銭や地位のような報酬にとどまらない。むしろ、より抽象的で、かつ長期的な信頼関係に基づくものであるのが通例だ。その典型が、いわゆる「師弟関係」である。

 伝統的な職人の世界を思い浮かべてみてほしい。そこでは師匠と弟子が実の親子以上の強い絆で結ばれていた。弟子は師匠の家に住み込み、日々の食事から身の回りの世話までを師匠に依存する一方で、師匠やその家族に尽くすという濃密な互恵関係があった。

 こうした関係の幾分かは、戦後の日本企業の中にも色濃く受け継がれてきた。先輩社員は後輩に対し、教科書には載っていない仕事の「秘伝」を教え、手塩にかけて育てる。その代わりに後輩は会社の枠を超えて先輩に対し永遠の忠誠を誓う。

 世話になった先輩が他社へ転職する際、有能な後輩がごっそりと引き連れられていく光景が珍しくなかったのは、この「目に見えない恩義の貸し借り」が組織を背後で動かしていたからにほかならない。

「合理的な改革」によって
失われたもの

 しかし近年の日本企業では、こうした属人的で不透明な関係を非効率なものとして見直す傾向が強まっている。eラーニングやOJTの標準化といった組織的な研修制度を充実させ、特定の個人ではなくチーム全体で人を育てる方針へと切り替える動きだ。