世の中をあっと言わせる偉業を成し遂げた人は、どんなことを考えていたのか。サラリーマンでありながらサンダンス映画祭で日本映画史上初のグランプリを受賞し、『あなたにしか作れないけれど、世界に通用してしまう 脚本の教室』を上梓した長久允氏の思考を辿ります。(構成/ダイヤモンド社書籍編集局)

脚本の教室人生後半Photo: Adobe Stock

忘れようとするほど、思い出してしまう

 人には誰しも、できれば思い出したくないことがあります。

 つらかったこと、恥ずかしかったこと、傷ついたこと。

 もう終わったことだから、忘れたほうがいい。

 そう思っているのに、ずっと心に残っている。

 そんな経験を経た人生後半、少しでもラクに生きるために、過去とどう向き合えばいいのでしょうか。

 映画監督/脚本家の長久允(ながひさまこと)さんは、自分の人生を脚本にすることについて、このように語っています。

 あなたの人生を、もしくは人生観を、脚本に書いていきましょう。(中略)
 無責任に言っているわけではありません。「人生を脚本にする」という行為自体がこのような意味合いを持っていると思っているからです。
 脚本を書くということは「客観的に(自分の人生を振り返り)、おもしろがる」行為。
 過去感じた大きな感情を、言葉に吐き出していく。
 あの頃つらかった自分を、上方からもうひとりの自分が観察して書き記していく。
 そうやってある種、エンタメ化していくわけです。


――『あなたにしか作れないけれど、世界に通用してしまう 脚本の教室』p231より

 忘れるのではなく、書いてみる。

 なかったことにするのではなく、いったん自分の外に出してみる。

 それにより、得られるものは必ずあると断言しています。

自分の人生を、少し離れた場所から見る

 さらに長久さんは、こう続けます。

 それはなぜか?
 それは脚本執筆に、かつて思い出を反芻するだけの「主観的視野」では太刀打ちできなかったその事象に対して、「自分を物語化する」ことで、「当時の自分を、現在の自分がありのままに評価」し「当時の自分をおもしろがる」という工程が必然的に含まれるからです。
 つらい体験は、他者からのアドバイスで短期的には忘れられたとしても、また何かのきっかけでぶり返すことがあります。
 しかし、自分で見つけた結論はそれよりも強い効力があるでしょう。脚本を書き切ることができたなら、あなたの物語はなんらかの結論を迎えているはずです。


――『あなたにしか作れないけれど、世界に通用してしまう 脚本の教室』p232より

 過去の出来事を思い出すとき、私たちはどうしても当時の感情に引き戻されます。

 なぜ、あんな選択をしてしまったのか。もっと早く気づけなかったのか。

 頭の中で何度も反芻しているだけだと、過去はいつまでも自分を責める材料になってしまいます。

 けれど、それを書いてみれば、主観的な思い出から距離が生まれる。

自分で見つけた結論は、人生を支えてくれる

 そして、もしそれによって想定しない思いが湧いてきたとしても、心配ないのだと長久さんは言います。

 もしくは改めて受け入れられないことを客観的に再認識することになったとしても、それには必ず意味があるはず。

 少し話が別ジャンルにそれますが、発達障害の治療法に「日記療法」というものがあります。日記療法がフラットに冷静に過去を振り返り、現在を記していくものだとすると、「脚本を書く」という行為は日記療法よりもさらに客観的(メタ的)に自分をエンタメ化していく荒療治に近いかもしれません。

 熱弁しておいて何ですが、別に「セラピー目的で書こう」という話ではありません。自分の人生を切り売りして、つらい体験を脚本に落とし込んだ場合、そうやってできた脚本こそがあなたにしか書けないものだと思うし、それは世界が評価するものになる可能性が高い。
 しかし、評価されなかったとしても大丈夫。その脚本執筆という行為自体が、結果的にあなたにとって意味あるものになるはず。
 ということを伝えたかったのです。


――『あなたにしか作れないけれど、世界に通用してしまう 脚本の教室』p232-233より

 自分の人生を、自分の外に少しだけ出してみる。

 人から励まされることは、もちろん救いになります。

 けれど、最後に自分を支えてくれるのは、自分で見つけた結論なのかもしれません。