いま、「知」を求める読書家のあいだで静かに広がりつつある本がある。元森ビル専務取締役CFOで、現在は多摩大学サステナビリティ経営研究所所長などを務める堀内勉氏の『生きるための教養』だ。山口周氏・松尾豊氏・冨山和彦氏・渋澤健氏らに絶賛される同書は、上下巻ともに500ページを超える大著ながら、平易な文章で読んだ人を深い思索と教養の世界に引き込んでくれる。
なかでも特に示唆に満ちているのが、終盤に配置された「資本主義」への問いと回答である。その詳細は同書に譲るとして、今回は『生きるための教養』の既読者とこれからの読者のために、堀内氏の既刊『ファイナンスの哲学』より、資本主義の解説部分を紹介する。

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資本(capital)/資本主義(capitalism)とは何か?

 近代経済学における資本とは、土地、労働と並ぶ生産3要素の1つである。ピケティの『21世紀の資本』では、長期的には、資本収益率は経済成長率よりも大きく、資本家への富の集中が起こり、その富が公平に分配されないことによって格差が拡大し、社会や経済が不安定化するとされている。

 資本主義は、「社会に投下された資本(貨幣)が、より大きな貨幣(利潤、余剰価値)となって回収されるという運動を繰り返す社会システム」である。ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』など、その起源には諸説あるが、18世紀半ばから19世紀にかけてのイギリスの産業革命を資本主義の始まりの中心と考えるのが一般的である。

 その起源のいかんを問わず、いったん稼働を始めた資本主義の無限の自己増殖運動は留まるところを知らず、リーマンショックなどに見られるように、自己破壊的な動きも見せ始めている。

 こうした資本主義の暴走に対しては、足元、「資本主義の改良・温存」と「ポスト資本主義の模索」という2つのアプローチによるブレークスルーが試行錯誤されている。

ファイナンスにおける資本

 ここで、「資本」とは何か、さらには「資本主義」とは何かについて検証してみたい。

 ファイナンスにおいて「資本」と言う場合には、第1章で述べたように、資本金、純資産、総資産などさまざまな意味に用いられ、誤解を招きやすいので注意が必要である。

 経済学や経営学には、人的資本や文化的資本という概念があるが、ファイナンスの分野においては、こうした概念は存在しない。ただし、たとえば企業買収(M&A)においては、バランスシート上には反映されていない人的資本の価値を買収価格の算定上勘案することは行われている。

 M&Aにおいては、買収の過程で会社のキーマンが辞めてしまうリスクが存在するが、買収後の一定の期間は、被買収会社の特定のキーマンが会社に残り、継続して事業運営に携わることを確約するキーマン条項を契約書に入れておく。

 キーマンには買収成立後、半年、1年、2年後などにリテンションボーナスが支給される契約や、新会社での重要なポストがオファーされたりするので、特に、会社運営が特定の役員や従業員の個人的な資質に大きく依存している場合や、同業他社への転職などによる競業を回避する必要がある場合に、有効な条項である。

 このように、例外的に人的資本の価値を企業価値の一部として認めることもあるが、一般的には、ファイナンスの分野では人間の経済的価値というのが貸借対照表や損益計算書に反映されることはない。

資本の定義

 ファイナンス用語としての「資本」に対して、近代経済学における「資本」とは、企業が事業活動を行う際に必要となる元手のことであり、土地、労働と並ぶ生産3要素の1つである。この資本の蓄積によって、生産活動の拡大を図ることができる。

 資本は過去の生産活動が生み出した生産手段のストックであり、工場や機械などの固定資本と原材料や仕掛品や出荷前製品などの流動資本からなる。資本については、たとえば、経済学者のグレゴリー・マンキューは、労働者が使用するさまざまな道具であり、たとえば、建設労働者が使うクレーンや会計士の用いる計算機、本書の著者のもっているパソコンなどがそれにあたると説明している。(グレゴリー・マンキュー『マンキュー経済学Ⅰ ミクロ編[第3版]』東洋経済新報社 第Ⅵ部第19章)

 他方、マルクス経済学においては、「資本」とは「剰余価値を生むことにより自己増殖する価値の運動体」を意味しており、産業資本・商業資本などの「現実資本」と「利子生み資本」に分類される。

 利子生み資本とは、資金そのものを資本家に貸し付けることにより、利子を介して利潤を得る形態の資本である。利子生み資本の例としては、金融機関や投資ファンドなどが挙げられる。利子生み資本は具体的な商品(物財・サービス)を生産しない形態の資本であり、その存在は産業資本に依存したものである。

 世界的なベストセラーになった経済学者のトマ・ピケティの『21世紀の資本』では、長期的には、資本収益率(r)は経済成長率(g)よりも大きくなるため、資本家への富の集中が起こり、その富が公平に分配されないことによって格差が拡大し、社会や経済が不安定化することが論じられている。

 ピケティは、この中で、「資本」(capital)を「富」(wealth)と同じ意味で使っており、「売り買いされるもので、収益を生みだすものは全て資本」というかなり広い概念として捉えている。つまり、ここでの「資本」は、一般の経済学上の概念と違い、「人間以外の資産として、所有できて何らかの市場で取引できるものの総和」として定義されており、企業や政府機関が使う、各種の不動産や、金融資産、専門資産(工場、インフラ、機械、特許等)などを広く含んでいる。(トマ・ピケティ『21世紀の資本』みすず書房 第1章)

 さらには、「価値(value)」の項で述べたように、「セカンド・マシン・エイジ」(第2次機械化時代)の生産活動においては、特に人的資本が重要であり、米国における人的資本の価値は、物的資本の数倍に達しているとも言われている。

【「資本」概念の比較】

一般的な定義=会社が事業を営んでいくための元手となるお金


近代経済学
資本とは、生産過程に投入される生産された財(生産された生産手段)であり、土地や労働などの再生産不可能な本源的生産要素と区別される、「資本財」一般を指す。
資本は、土地、労働と並ぶ生産三要素の1つで、その耐久性の違いにより、工場、建物、機械設備など、長期間にわたって継続的に使用可能な固定資本と、原材料、仕掛品、出荷前の製品など、一期間で完全に使用されてしまう流動資本とに大別される。
資本は、「金融資本」(金銭や株式など)、「物的資本」(建物や設備など)、「人的資本」(労働者の教育程度や健康状態など)の3つに分けられる。

マルクス経済学
資本とは、剰余価値を生むことにより自己増殖する価値の運動体である。資本主義経済において資本が主体として再生産を繰り返すことで、社会を維持、成長させる。
資本は、生産過程で剰余価値を生み出し価値増殖をしていく「産業資本」と商品流通での不等価交換から利得する「商業資本」などの「現実資本(機能資本)」、及び、資金を貸し付けることにより利子を介して利潤を得る「利子生み資本」に分類される。
マルクス経済学における本来的な意味での資本は、剰余価値創造主体である労働者を賃労働者として実体的に包摂することにより、自己増殖する価値となった産業資本を指す。

ピケティ『21世紀の資本』
資本とは、富(wealth)と同じ意味であり、企業や政府機関が使う、各種の不動産や、金融資産、専門資産(工場、インフラ、機械、特許)など、売買ができて、収益を生み出すものの全てを指す。すなわち、人間以外の資産で、所有可能であり、市場で取引できるものの総和が資本となる。

会計学
資本とは、資産から負債を差し引いた純資産を指す。資本は元本と獲得利益からなり、元本は資本金と資本剰余金から、獲得利益は利益剰余金で構成されている。株式会社の場合は、これ以外にも土地再評価差額金、その他有価証券評価差額金、自己株式も資本の構成要素となっている。
また、銀行からの借金など、第三者から調達し返済義務があるものを他人資本と呼び、自己資本と他人資本を合わせたものを総資本と言う。

「資本主義」という言葉

 次に、この「資本」と「主義」が結びついた、「資本主義」というものについて考察してみたい。

「資本」は英語では“capital”であるが、この言葉は、「一国の中心都市(首都)」を意味すると同時に、「首」をも意味する。つまり、英語では「首都」と「首」と「資本」が同一語なのである。

 なぜ“capital”が「首都」であると同時に「資本」なのかと言えば、“capital”は、「中心」「中枢」「第一」を意味するラテン語の“capitalis”に由来し、さらにこれが同じくラテン語で「頭(首)」を意味する“caput”から派生したためである。

 中心や中枢は、国で言えば「首都」であり、さまざまな事物が集まる中心地という意味も持つ。そして、さまざまな事物の集まりは一種の蓄積であり、財産や大きな富へと繋がっていく。したがって、“capital”は、「首都」であると同時に「資本」だということになる。

 そして、“capital”に「主義」を表す接尾語の“-ism”が付け加わったものが、“capitalism”ということになる。“capitalism”が誕生したのは18世紀半ばであるが、その当初の語義は、「大きな富を持つ地位・状態」といった曖昧な言葉に過ぎなかった。歴史的に見た場合、“capitalism”という言葉が「資本主義」という意味で一般化したのは、19世紀半ばのことである。

 資本主義は、しばしば社会主義や共産主義との対比で用いられるが、資本主義という概念は、何らかの理念や原理に立脚して定義されたものではない。資本主義という用語は、一種の生産様式や経済体制を指すのであって、特定の思想や主張を直接的に意味するものではない。この点で、思想的な含意の強い社会主義や共産主義といった用語とは性質が異なっている。

 1868年にカール・マルクスが著した『資本論』(“Das Kapital”)の第1部の本文冒頭は、「資本主義的生産様式の支配的である社会の富は……」と和訳されているが、マルクスの用いた原語は“Kapitalismus”(資本主義)ではなく、“Kapitalistisch Produktion”であった。これを直訳すれば「資本家的な生産」となるのだが、むしろ「大きな富を持つ者による生産」と訳した方が、ニュアンスが伝わりやすい。(カール・マルクス『資本論』岩波文庫)

 このように、マルクスの『資本論』の中には、“Kapitalismus”という用語は登場しないのだが、その後のマルクス主義者たちによって、敵対者の立場を非難する用語として、“capitalism”が“socialism”(社会主義)や“communism”(共産主義)と対立する用語として使われるようになった。今日的には、思想的な意味で社会主義や共産主義に対立する言葉は、“capitalism”ではなく“liberalism”(自由主義)である。

 こうした経緯があったにせよ、“capitalism”という用語は、次第に社会的に受容され、今日的な意味での資本主義という概念が一般化したのである。(薬師院仁志『日本語の宿命 なぜ日本人は社会科学を理解できないのか』光文社新書 第11章)

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資本主義とは何か?

 それでは次に、「資本主義とは何か?」ということになるのだが、資本主義の定義については、「社会に投下された資本(貨幣)が、より大きな貨幣(利潤、余剰価値)となって回収されるという運動を繰り返す社会システム」という表現が一般的である。

 他方、マルクスは上述した「資本家的な生産」を、「生産手段が少数の資本家に集中し、一方で自分の労働力を売るしか生活手段がない多数の労働者が存在する生産様式」と定義している。

「資本主義の終焉」で脚光を浴びた経済学者の水野和夫は、資本主義は「中心」と「周辺」から構成され、「周辺」を取り込むことで「中心」が利益を得て拡大されていくシステムであると定義している。

 そして、実物投資空間(地理的空間)で利潤を追求するのが資本主義1.0、16世紀はじめに終焉した地中海資本主義が資本主義1.1、大航海時代を契機とした工業化・都市化が進んだ近代資本主義が資本主義1.2、電子・金融空間(バーチャル空間)で利潤を追求する資本主義のことを指すのが資本主義2.0であるとしている。(水野和夫『資本主義の終焉と歴史の危機』集英社新書)

 このように、資本主義についてはさまざまな定義がなされており、歴史家のフェルナン・ブローデルは、この「資本主義」という言葉について、「この論争の的となっている言葉は曖昧であり、現代的な意味から、さらには時代錯誤的と言われるような意味まで背負い込まされてしまっていることは、私も十分承知してはいる」と言っている。(フェルナン・ブローデル『歴史入門』中公文庫 第2章)

資本主義の起源

 資本主義の定義と同様に、その起源についてもさまざまな議論があり、いまだ決着はついていない。たとえば、すでに「倫理(ethics)/信頼(trust)」で説明したように、ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは、20世紀初頭に著した『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、16世紀の宗教改革時代の神学者ジャン・カルヴァンによる「予定説」が西ヨーロッパに広まったことで、近代資本主義の発達が促進されたと主張した。

 予定説とは、キリスト教において、救われる者と救われない者とが神の意志により予め定められているとする説であり、パウロからアウグスティヌスを経て、カルヴァンの救済と滅亡の「二重予定説」に至った。

 ウェーバーの論理は、人々が神の救済に与れるかどうかわからない中で、自分こそは救済されるべき選ばれた人間であるという証しを得るために禁欲的に職業に励み、増えた収入も貯えも享楽目的には使わず、さらなる仕事のために使おうとしたことが、結果的に資本主義を発達させたというロジックであるが、その正否についての論争はいまだに決着がついていない。

 歴史的には、資本主義の始まりを18世紀半ばから19世紀にかけてのイギリスの産業革命を中心にして考えるのが一般的であり、社会学者のイマニュエル・ウォーラーステインの『近代世界システム』以降は、資本主義の歴史は概ね500年という認識が定着している。(イマニュエル・ウォーラーステイン『近代世界システム』名古屋大学出版会)

 他方、経済学者の佐伯啓思は、資本主義を「人間の欲望のフロンティアを開拓し拡張する自己運動」、つまり、「人間が生存を維持するのに必要なもの以上のモノを生みだしてしまうという意味での過剰を、大規模な浪費(=消費社会)を作り出し、拡大させることで処理しようとするシステム」として捉えるならば、必ずしもイギリスの産業革命を起点に捉える必要はないとしている。(佐伯啓思『「欲望」と資本主義 終りなき拡張の論理』講談社現代新書 第3章、第4章)

 また、社会学者のエリック・ミランは、『資本主義の起源と「西洋の勃興」』において、10世紀から15世紀頃にかけての中世の諸地域の考察を通じてそうした常識の見直しを行い、資本主義のいくつかの特徴が1100~1350年頃の中世ヨーロッパに見られるとして、資本主義は12世紀以降のヨーロッパに出現したとする枠組みを提示している。

 ミランは、当時のヨーロッパ社会では商人が政治的権力を持っており、都市国家間システムの中で競争しつつ周辺地域を植民地化し、持続的な資本蓄積を可能にしていくという地政学的特徴が見られたとしている。このように、今日の資本主義の特徴はすでに中世ヨーロッパに現れており、中世封建体制は、突然、資本主義体制に取って代わられたというよりも、むしろゆっくりと後退していったと結論づけている。(エリック・ミラン『資本主義の起源と「西洋の勃興」』藤原書店 第1章)

【「資本主義の起源」に関する諸説】

一般的な理解

15世紀以降の大航海時代には商業資本主義(商品の流通過程から利潤を得るもの)が存在しており、それが18世紀のイギリスにおいて、産業革命によって封建制という制約を打破することで、産業資本主義(商品の生産過程から利潤を得るもの)に転換した。

マックス・ウェーバー(1864年~1920年)
プロテスタントの世俗内禁欲が資本主義の「精神」に適合性を持っていたという、逆説的な論理を提出し、近代資本主義の成立を論じた。
その論理は、人々が神の救済に与れるかどうかわからない中で、自分こそは救済されるべき選ばれた人間であるという証しを得るために禁欲的に職業に励み、増えた収入も貯えも享楽目的には使わず、さらなる仕事のために使おうとしたことが、結果的に資本主義を発達させたというもの。
この『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、大きな論争を引き起こすことになったが、特に当時のマルクス主義における、「宗教は上部構造であって、下部構造である経済に規定される」という唯物論への反証としての意義があったとされる。

カール・ポラニー(1886年~1964年)
経済が社会の中に埋め込まれていた資本主義以前の時代と、社会が経済の中に埋め込まれた資本主義以降の時代の間には、産業革命による技術の進歩という本質的な不連続がある。
労働、土地、貨幣が全て市場メカニズムの中に組み込まれて、いわば社会の実体が市場の諸法則に従属させられるにいたった市場経済社会は、人類史上きわめて特殊な制度的所産である。その病理と閉塞を乗り越えるためには、より根本的・普遍的社会である非市場社会の原理を摂取する必要がある。(『経済の文明史』)

カール・シュミット(1888年~1985年)
近代は「陸と海の戦い」であり、オランダは16世紀から東南アジアを支配し、イギリスと海賊行為を争った。海賊が世界を全てテリトリーに収めた19世紀末に資本主義は完成し(海賊資本主義)、世界は宗主国によって再テリトリー化された。(『陸と海と 世界史的一考察』)

フェルナン・ブローデル(1902年~1985年)
市場経済と資本主義はまったく別のシステムであり、両者が初めて結合されたのが18世紀以降のヨーロッパだった。
資本主義がイギリスで生まれたのは、「産業革命」と呼ばれる技術的な発明のおかげではなく、植民地から搾取した莫大な資本によって。資本主義は新古典派経済学の描く「完全競争」の均衡状態とはまったく逆の、つねに不均衡を求めて新たな市場をさがし、巨大な独占利潤を蓄積するシステム。(『物質文明・経済・資本主義』)

イマニュエル・ウォーラーステイン(1930年~)
16世紀に成立した「近代世界システム」のみが世界帝国となることなく、衰退することもなく存在し続ける理由として、世界的な資本主義の発展を挙げており、近代世界システムが多数の政治システムにより成り立っていたため、経済的余剰を世界帝国特有の巨大官僚機構や広域防衛体制に蕩尽することなくシステム全体の成長に寄与させることができ、また経済的要因の作用範囲が個々の政体の支配範囲を凌駕していたため、世界経済は政治的な掣肘を超えて発展することが可能になったとしている。

エレン・メイクシンズ・ウッド(1942年~)
17世紀のイングランドの田園地帯で、「地主、借地農、賃労働者」という新しい階級構造が生まれ、借地権、地代、利潤確保の競争の中で、農民は資本家的借地農と賃労働者に分解し、この競争の中で、農業の改良が価値を生み出すことが明らかになり、そこから資本主義が生まれたとしている。つまり、産業革命が資本主義を生んだのでなく、農村での資本主義革命が資本家と労働者という階級を創出し、それが産業革命をもたらしたのだということ。

佐伯啓思(1949年~)
資本主義を「人間の欲望のフロンティアを開拓し拡張する自己運動」だと捉えると、一般的にいわれるように資本主義の始まりをイギリスの産業革命を中心にして考える必要はない。(『「欲望」と資本主義 終りなき拡張の論理』)

水野和夫(1953年~)
資本主義の起源は1215年の第4回ラテラノ公会議で、ローマ教会が「金利」を認めたことに遡る。
資本主義の始まりには、①12~13世紀説、②15~16世紀説、③18世紀説があり、12~13世紀説では、イタリア・フィレンツェにおける利子の成立を資本主義が始まる根拠とし、15~16世紀説は、シュミットがいう「海賊資本主義」を国家が行ったことが、18世紀説では、産業革命が、資本主義を始動させるメルクマールとされている。(『資本主義の終焉と歴史の危機』)

エリック・ミラン(1973年~)
「資本主義のいくつかの特徴が1500年以前、もっと正確に言えば1100~1350年、のヨーロッパにすでに強力に現れており、しかもその重要性が増大してきているというのなら、封建制は、突然かつ完全に、新しい別の蓄積体制に取って代わられたというよりも、むしろゆっくりと危機に沈んでいったというほうが説得的なのではないだろうか」として、資本主義は12世紀以降のヨーロッパに出現したとする枠組みを提示した。そして、ヨーロッパだけに資本主義が発生した理由として、都市国家間システムの重要性を強調している。(『資本主義の起源と「西洋の勃興」』)

資本主義はどこまで拡大するのか?

 このように、資本主義の定義や起源については諸説あり、いまだ論争に決着はついていないが、資本主義が今日でもたくましく、さらにパワーアップして生き残っていることに異論はないだろう。この資本主義を支えるエネルギーの源はどこにあるのだろうか。

 この点について、岩井克人は、次のように解説している。

「具体的なモノに対する欲望には、当然、限りがあります。人びとの生活の必要さえ満たしてしまえば、解消されてしまう。……これに対して、〈可能性〉に対する欲望は満たされることはありません。なぜならば、人間に想像力がある限り、人間は〈可能性〉を無限に想像することができるからです。したがって、〈可能性〉それ自体としての貨幣─その貨幣に対する欲望には、限りはありません。……すなわち、一層大きな貨幣の量を永久に求め続ける『貨幣の無限の増殖』が始まってしまうのです。要するに、商人術とは現在では『資本主義』と呼ばれている経済活動にほかなりません」(岩井克人『経済学の宇宙』日本経済新聞出版社 第8章)

 1929年に始まった世界恐慌を受けて、経済学者のジョン・メイナード・ケインズは、以下のように、「資本の自由放任の終焉」は不可避であるとした。

「(第1次世界)大戦後にわれわれ自身がその中にいる、退廃した国際的で、個人主義的資本主義は成功ではない。それは知的でもなく、美しくもなく、公正でもなく、道徳的でもない─そして、善をもたらさない。要するに、われわれはそれを好まないし、われわれはそれを軽蔑し始めている。われわれは、その代わりに何を据えるのかしらと思うとき、非常に困惑する」(酒井凌三「ケインズの『国家的自給』について」『名古屋学院大学論集』2008年10月)

 この言葉は、イギリスの元首相チャーチルが語った、「民主主義が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けばだが……」を想起させるものである。(ウィンストン・チャーチル 1947年11月11日 下院演説)

 2008年のリーマンショックに際して、経済学者で元財務長官のローレンス・サマーズは、「100年に一度の危機は3年に一度やってくる」と言ったそうだが、21世紀に入っても、資本主義の暴走は留まるところを知らないようである。

資本主義の暴走は止められるか?

 他方、こうした資本主義の暴走に対して、担い手の側から上手にコントロールしようという運動も始まっている。

 たとえば、2014年に、“The Conference on Inclusive Capitalism”(包摂的な資本主義をめざす世界会議)が、世界有数の機関投資家、資産運用会社、企業、政府系投資ファンド、金融機関のリーダーたちを集めて開催された。同会議の創立者兼ホストは、ロスチャイルド一族のリン・フォレスター・ド・ロスチャイルドで、同会議の目的は、資本主義制度を刷新できる実行可能な方法を見つけ、資本主義を経済的機会均等及び繁栄の共有を推進する包摂的なエンジンに変えることである。

 同会議の37の国々及び35のビジネス分野を代表する250人は、世界の投資可能所得の3分の1に相当する推定30兆ドルの資産を代表している。

 同会議は非公開で行われたが、一部はライブ配信され、チャールズ皇太子、ビル・クリントン、クリスティーヌ・ラガルド、マーク・カーニー、ローレンス・H・サマーズ、ポール・ポルマン、チャーリー・メイフィールド卿、金立群、エリック・シュミット、デービッド・セインズベリー卿などが講演を行った。

 また、世界を代表する大富豪であるビル・ゲイツとウォーレン・バフェットの2人が2010年に立ち上げた、“The Giving Pledge”という寄付プラットフォームがある。ここでは、より多くのお金持ちが自身の財産の寄付をオンライン上で意思表明することで、社会貢献活動に対する社会的な関心を高め、より良い世界につなげることを目指しており、世界中の富豪たちに社会貢献活動に寄付するよう呼びかけている。

 このオンラインプラットフォームでは、オラクルの創業者ラリー・エリソンや、eBayの創業者ピエール・オミダイア、フェイスブックの創業者マーク・ザッカーバーグ、シティグループの元CEOサンフォード・ワイルなどの実業家のほか、映画監督ジョージ・ルーカス、元ニューヨーク市長のマイケル・ブルームバーグなど、約140人の大富豪が、財産の半分を社会貢献活動に寄付することを宣言している。

 このように、資本主義を上手にコントロールすることで、社会の持続可能性を担保しようという運動が広がっているが、最近では、科学史の観点から、上述の広井良典が非常に興味深い洞察を行っている。

 広井は、人類史を、狩猟採集段階、農耕段階、産業革命以降の3つに分け、それぞれの段階で人類は拡大・成長と定常化の時代を繰り返してきたとしている。そのうえで、資本主義の拡大・安定の趨勢は、科学が提示する基本的な人間観や自然観と同じ構造を持っているのではないかとして、その背景にある価値原理は、究極的にはある時代状況における人間の生存を保証するための手段として形作られるのではないかという仮説を提示している。

 つまり、近年、他人の感情に同調するミラーニューロンの発見や他者との相互作用によって高度に発達したソーシャル・ブレイン(社会脳)の研究など、人間の利他性や協調行動が科学的に強調されるようになった背景には、そこに力点を置かなければ人間の存続が危うくなっているからではないかとして、「ポスト資本主義/ポスト成長」という新しい価値原理を提示している。

 広井の提示する「ポスト資本主義」は広大な仮説であるが、資本主義の拡大・安定の趨勢も、結局は人間の生存という最も重要な目的に沿っているというのは、斬新な視点である。(広井良典『ポスト資本主義 科学・人間・社会の未来』岩波書店)

 我々人類は、今、明らかに岐路に立たされており、グローバルに広がり続ける資本主義と地球環境・資源の有限性という矛盾する課題に対して、新たなパラダイムを導き出すことが求められている。そうした持続可能性という視点から、新たな定常社会をどれだけ具体的に構想できるのか、人類の知恵と実行力が問われているのである。