信越化学工業 金川千尋社長(撮影/加藤昌人) |
最も尊敬する人物はと聞かれれば、迷いなく山本五十六連合艦隊司令長官と答えます。ただ、1926年生まれの私にとっては山本長官は、戦国武将のようないわゆる歴史上の人物とは違い、まさに同じ時代を生きていた“実在の人物”です。
山本長官の乗った飛行機がブーゲンビル島上空で米戦闘機に撃墜され、戦死したのは43年4月18日。しかし大本営は、国全体の士気に影響することを心配し、その事実を1ヵ月以上伏せました。事実、国民全体が意気消沈したのを覚えています。
裁判官だった父の勤務先の関係で、私は日本統治下にあった朝鮮で生まれました。18歳まで京城(現在のソウル)で過ごし、その後、岡山の旧制第六高等学校に入学しました。
その岡山が大空襲に見舞われたのは45年6月29日未明。120機のB29が飛来し、無数の焼夷弾をばらまいたのです。当時住んでいた寮も火に襲われました。私も着ていた菜っ葉服の背中に火の粉を浴びましたし、焼夷弾の直撃を受け、亡くなった後輩もいました。
ひと晩逃げまどい朝を迎えると、岡山の街はすっかり焼け野原で、死体があちこちに転がっていました。日本は神の国であり、戦争に負けるはずがないと教えられてきましたが、なんのことはない、日本は焼夷弾でたやすく焼き払われてしまう“紙の国”だったのです。
住むところをなくした私は、やっとの思いで京城の家族の元にたどり着き、終戦は京城で迎えました。