6歳以上の、すべての男女に「口分田(くぶんでん)」を与える。ただし口分田の売買は禁止、本人が死亡した場合は田地は国家に返すこと――。

 7世紀後半、飛鳥(あすか)時代に実施された「班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)」については、日本史の授業でご記憶の方も多いだろう。この制度は、公地公民(土地公有)を原則に据えつつも、人民に土地を班給した。日本人の土地所有は、この「班田収授法」から始まったといってよい。

 この功績は、日本人の心の中に、中産階級を育てたところにある。日本には中国や欧米に見られるような奴隷制度がなく、ただ一人の君主(天皇)が権限を持ち、その下の人民には身分差がない「一君万民」が原則である、として国の方向性をはっきりと示したという点でも意義深い。

 この制度のモデルは、唐にあった。しかし、唐の「均田制(きんでんせい)」における口分田と違うのは、日本では6歳以上の男女を対象に、あまねく田地を与えたところにある(女は男の3分の2の広さ)。きわめて、社会主義的な施策といえる。

 なぜかといえば、この経済政策の目的が、日本の社会構造を安定させることにあったためだ。日本は資源を持たない貧しい国である。それは古代から現代まで為政者にとって、終始一貫した認識であった。豊かになるには、国を挙げて田んぼで農業を行なうしかない。

 つまり、この時点で日本は「コメで生きていく」という大原則を確立したのである。こうしたコメに対する意識は、その後も綿々と続いていく。

土地への欲望を生んだ
「墾田永年私財法」の功罪

 ところが、「班田収授法」には欠陥があった。まず、田地が不足した。国は田地を与えるのみで、新しく田地を開墾するというケースを想定していなかったのである。

 また一方で、死んだら返すのではメリットがない、といった苦情も多かった。それでは耕作する意欲がわかないというわけだ。要するに、もっといいものを作りたい、もっと広く土地を使いたい、といった民衆の意欲を高める仕組みがなかったのである。