日本テレビのドラマ「明日、ママがいない」が大炎上している。ネットでも話題なのでご存じの方も多いと思うが、事件のあらましを簡単にお伝えしておく。
このドラマ、年明け1月15日から放送が開始された。児童養護施設に暮らす子どもたちの姿を描いた作品だが、その表現が差別を助長したり、施設で暮らす子どもたちを傷つけるとして、いわゆる「赤ちゃんポスト」を設置する慈恵病院(熊本市)が日本テレビに放送中止を求め、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送人権委員会にも審議を求める申立書を送付した。また、全国児童養護施設協議会と全国里親会も放送内容の改善を求め、同局に抗議文を送付。いわば、日テレは業界全体を敵に回す格好になってしまった。
この状況のなか、本日29日放送の第3話ではすべてのスポンサーが提供を降りることになったという。ネットでも話題騒然で賛否両論あるが、CSR視点でこの問題を語ったものは見当たらなかったので、今回はその視点で書きたいと思う。ただし、残念ながら僕は第1話の放送を見ていない。第2話を見ただけの判断であることをまずはお伝えしておく。
ドラマを見て強く感じた、
リアリティの欠如
第2話のテーマは「里親」について。虐待によって殺されかけ、舞台となる施設に入所した幼い男の子が、里親候補となる子どものいない夫婦のもとに「お試し」で預けられるという話だが、虐待を受けて施設に入所している子どもの里親になることの困難さは、視聴者にもある程度なら伝わるようにはなっていたかと思う。しかし僕は、肝心の状況設定が間違っている気がした。
まず、第2話の状況設定を簡単に説明しよう。
この里親候補の夫婦は、最初は愛情深く男の子(この子は、母親がパチンコ依存で育児放棄したことで死にかけた子どもなので、「パチ」というあだ名で呼ばれている)に接する。しかし、パチは使い古したシャンプーのボトルを抱きかかえたまま離そうとしない。それは、自分をネグレクトした母親が使っていたシャンプーのボトルで、つまり「母の香り」だったのだ。そのことを知った里親候補の妻は、自分の愛情を受け入れようとしないパチの行動に憤り、無理やりボトルを取り上げ、ゴミ箱に捨ててしまう。そのことでパチは、虐待されていたときのことがフラッシュバックし、パニックを起こしてしまう、というもの。
僕は、これがリアリティを欠いていると感じてしまった。そもそも虐待を受けた子どもの里親候補というのは、過去にも里親経験があり、さらに専門的な知識とスキルの研修を受けた人たちだ。そのような人たちが、自分の感情にまかせてあきらかに子どもを傷つけるような行為を安易に行なうだろうか。そんな疑問を抱かせるような、リアリティの欠如を僕はこのドラマに感じてしまうのだ。
今回、慈恵病院や児童養護施設、里親関係者が怒っている要因には、この「リアリティの欠如」がある。これに対して、「これはフィクションだから、設定が事実と違っていることもある。そこを突つかれたらドラマなんか作れない」という意見もある。しかし、ドラマにおけるリアリティというのは、それほど単純なものではない。