2011年3月11日の東日本大震災から、間もなく4年目を迎える。3.11を1000年に一度の災害だったという人がいた。1945年の敗戦以来の歴史的事件だったという人がいた。「絆」「がんばろう」と多くの人が叫んでいた。震災復興を語りたがる人で溢れていた。あれから3年が経ち、そして、誰もいなくなった。
いまこそ、問おう。大仰な文明論が牽強付会に語り続けられた熱狂の果てに、何が変わり、何が変わらなかったのか、と。ここで動かなかったならば、いつ動けるのだ、と。
本連載が問うのは、その一つの糸口だ。そこにはシンプルな疑問がある。「日本の企業は、3.11後の社会に何ができたのか?そして、そこで何が変わったのか?」人は「3.11を忘れてはならない」と繰り返す。しかし、これまで通りそう繰り返すだけで、風化に抗うことはできるのか。震災以前から注目されている日本企業の社会貢献の重要性、その現実を追う。
「3.11を忘れない」だけでいいのか?
「3.11を忘れない」
今年の3月11日前後も、要するにそういう言葉で溢れるだろう。もちろん、色々な言葉づかいのパターンがあるだろうが。
あの日の犠牲者たちの物語。
いまだに震災の影響で苦しんでいる、あるいは、新たな希望の道を見つけて前向きな姿を見せる子どもやお年寄り。そして、何らかの問題を描きながら「復興の遅れ」を指摘し、遺憾の意を示す人々。
震災から1年目のときも、2年目のときもそうだった。そして、3度目の「その時期」がやってくる。もちろん、それが悪いと言うつもりはまったくない。むしろ、これは極めて重要な「きっかけ」だ。「あるテーマを持続的に問い続ける回路」の1つになるという点において。
例えば、多くの祝日や記念日がそうだろう。悲劇も喜劇も、私たちは時間の経過とともに何かを必ず忘却する。同時に、それを暦の中に入れ込んで、継続的に問い続ける回路をつくる。
しかし、「きっかけ」を設定したことにかまけて、思考停止に陥ってはならない。「忘れられている」「復興が遅れている」と嘆いてみるのなら、「だとすれば、今、何が必要か」までを含めて示す必要がある。
さもなければ、普段は関心のない多くの人からは「これ、今まで何度も見たような話だな」「またこのネタか……」という反応、あるいは無反応ばかりを招くことになるだろう。「同じような話の再生産」を続けるようになり、それは次第に、人々の興味を縮小再生産していくのみだ。
現に、1年目より2年目、2年目より3年目と人々の関心が薄れることはあっても、高まることはない。テレビ視聴率、書籍発行部数、そもそも、メディアで取り上げられる数。「どうにか取り上げたいんだ」という気持ちも、「数字が取れないから」とかき消されてしまうと聞く。
ただ、少し冷静になれば、これも「ないものねだりの嘆き」なのかもしれないとも思う。災害も事件・事故も、どれだけ人々に衝撃を与えた社会問題も、時間が経つとともに忘れられていくのが自然だ。そうであるからこそ、苦しい思いから逃れて未来を考えられるようになる人もいる。そんな側面があるのもたしかだ。