壊滅した故郷のイチゴ産地を、
新しい形で甦(よみが)えらせた復興起業家

 東日本大震災で95%が壊滅した故郷のイチゴ産地を、全く新しい形で甦えらせた復興起業家がいる。当時東京でIT企業を経営していたGRAの岩佐大輝社長である。

 岩佐さんは、生まれ故郷である宮城県山元町が被災してから、度々、東京の仲間と20名程度のボランティアツアーを組んで現地を訪問していた。しかし、しだいに「一生懸命に泥かきするのもいいけど、もっと自分たちの価値を発揮できることはないだろうか」と悩むようになる。ちょうど、ボランティア仲間には、東京でITや会社経営をやっている人たちが多かったので、地元の雇用創造に貢献できるようなことがしたいと町の人たちに提案してみたところ、歓声が湧き上がった。地元が本当に求めていたのは産業であり雇用だったのである。

 以後、岩佐さんは、ボランティア活動から産業創造へと自身のギアを切り替えた。町の人たちと徹底的にブレストし、町の基幹産業であったイチゴ産地を復活させる夢に賭けた。

 震災前、山元町ではイチゴの出荷額が14億円あった。これは町の予算規模が40億円程度であったことを考えると、非常に大きな存在感だ。

「イチゴ産地の復興なくしては、山元町の存在は危うい。復興の旗印になるような成功事例を急いで作らないと、この町に目が行かなくなる。人がいなくなって、文化も無くなってしまう」と恐怖を感じていた岩佐さんは、産地復興に向け、自らが持つノウハウや人脈を駆使して、町の農家のマーケティング支援に乗り出した。しかし、既存の流通機構の縛りもあって、岩佐さんが思い描くように、山元町ブランドで全国に農産物を出荷することはできなかった。

 普通ならここで、既存の流通機構に不満を言ってみたり、改革が必要だと声高に叫んだりするだろう。しかし岩佐さんは違った。既存のプレイヤーの枠外で、自分たちで新しいビジネスモデルを立ち上げたほうが早いと考えたのである。

 そして2011年11月、無謀にもたった3名(農家の友人と役所の友人)で、井戸を掘り、ビニールハウスを作り始めた。井戸水は塩分を含んでおり、イチゴは上手く育たないと思われていた。しかし、イチゴは奇跡的に育ち、翌年、収穫の春を迎える。岩佐さんはこの時、「食べものを作る難しさを味わい、食べたときの喜びに感動した」という。

イチゴづくり35年以上の匠の暗黙知を
組み込んだデータ農業

 2012年に入り、岩佐さんは、最先端のイチゴづくりを本格化させる。農林水産省の研究事業の受託法人となるべく活動を開始し、ついに、産地復興の象徴ともいうべき巨大なハウス群を5億円投じて建設した。

一粒1000円のイチゴをつくる「データ農業」