「オフレコ」がどこにもない
“透明化”した私たちの社会

 僕はどちらかというと真実を知りたくて仕方がないというタイプの人間だが、世の中には真実を知りたくないという人も多い。いやむしろ、最近の「真実を意図的に見ないようにしている人」を見ていると、そちらの方が多いかもしれないと思うようになった。

 レイシストは世界中に存在するが、彼らの多くは自国で経済的に恵まれない環境におかれていることも多い。自分たちはこんなに恵まれていないのに、外からやってきた外国人はなんだか自分よりも裕福そうに生きている。そうなると、なんだかムカつく、という視点に陥ってしまいがちだ。ひょっとして日本は経済的困窮者が増えているのかもしれない。でも、それだけではない気がするのだ。

 世の中の要請として、コンプライアンスを重視する社会情勢が上げられる。コンプライアンスは清廉潔白であることを個人に求める。これは健全な社会のためには必要なものだと考えるし、そこは否定の余地がないが、一方で私たちの世の中にかつてあった、「なんだかよくわからないフワフワしたもの」がなくなりつつあるように思う。

 たとえば、テレビやラジオで芸人が不謹慎な失言をすると、ニュースとして報じられる。が、そもそも本来の芸能の文脈で言えば、不謹慎なことをあえて言うのが芸人であるような気もする。テレビの芸能人のような非常識な人たちが、清廉潔白を望まれているというのは皮肉な状況である。

 また、森元首相がソチ五輪での浅田真央選手の演技について失言をしていたが、あれは森元首相の立場と発言のギャップが問題なだけで、たとえば居酒屋の談笑レベルであれば多くの人が話していそうなことだった。つまり、ここで問題なのは、発言の密室性がなくなっているという点だ。

「オフレコだから話せる」の、オフレコが存在しなくなっている。これがコンプライアンスの副作用だ。日常生活にカメラ付きのスマートフォンや、一瞬のうちに何か情報をつぶやける装置が開発されると、一瞬のうちに仲間内の過度な悪ふざけが、社会的制裁を受ける状況に発展する(バカッター問題)。もちろん森元首相の発言やバカッターが善だとは思わないが、罪と罰がアンバランスな状況は生まれやすい。

 こうして世の中のありとあらゆることが透明であることを求められるし、透明になっていく。もちろんそれで、ある種の過ごしやすさが生まれるだろう。不謹慎な発言をする人の数は減るし、たとえばブラック企業に就職して悩む人は、情報を収集することで自分たちの環境が不当であるということが可視化され、行動に移すことが可能になる。

 ではここで、勇気を持って発言をしよう。私たちは、本当に“透明”を望んでいるか、と。