『A3』のトークショーで出されたある質問

 数年前に大阪で新刊発売のトークショーを行ったとき、後半の観客との質疑応答の際に、「あなたは『下山事件(シモヤマ・ケース)』で事実を捏造したとかつて批判されたが、それについてはどう思うか」と質問されたことがある。

 このときは『A3』についての催しだった。観客の多くは『下山事件』を読んでいないはずだ。だから基本的には答えるべきではないと考えた。でもまったくの無視もできない。ごまかしたと思われることも本意ではない。だから『下山事件』文庫の後書き「文庫版のための付記」に書いたことを繰り返す形で、手短に返答した。以下にその一部を(多少要約しながら)引用する。

 捏造とは事実を知りながら故意にこれを歪曲することだ。それとは違う。言い換えれば、活字と映像を生業にする者として僕は、捏造やヤラセなどの言葉を安易に使いたくない。
 活字も映像も、それが表現であるかぎり、主観という名の嘘にまみれてしまうと僕は考えている。でも作為的な嘘はつかない。自分が獲得した事実に対しては、僕は今までも誠実でありたいと考えていたし、今後もそれは変わらない。倫理や規範ではない。このレベルで嘘をついていては、取材や撮影をしながら、自分自身が面白くないからだ。
 ただし僕のミスはほぼ明らかだ。何しろ当事者が「あんなことは言っていない」と否定しているのだ。文庫化にあたって本文を訂正すべきかどうかかなり悩んだけれど、僕の記憶は書いたとおりのままだ。だから本文は修正しなかった。基本的には一字一句変えていない。
 「謝罪はしない。なぜなら自分が間違ったことをしたとは思っていない」と答えたけれど、その思いは今もまったく変わらない。

 文庫化の際に「今も変わっていない」と書いたこの思いは、それから八年が過ぎた今もまったく変わっていない。僕が依拠すべきは自分の記憶だ。特に『下山事件』執筆においては、取材時には映像化を想定していたから、綿密なメモは残していなかった。メモに頼ろうにも存在していないのだ。

 ただし記憶は誤作動を頻繁に起こす。思い込みも少なくない。だから明らかに思い違いであるのなら修正する。それによって誰かに迷惑をかけたなら謝罪する。でも明白に間違いであると自分で断言できないのなら、僕は記憶を優先する。「文庫版のための付記」に書いたように、当人が違うと言っているのなら、僕が間違えている可能性はきわめて高いとは思う。思うけれどパーセンテージの濃淡を理由に修正はしない。それをしたらノンフィクションは書けなくなる。