齢50になる男がいる。中肉中背。年甲斐もなく髪は中途半端なロンゲ。千葉県と茨城県の県境のあたりに居住している。
 名前は緑川南京。奇妙な名前だけど本名だ。南京と書いてナンキョウと呼ぶ。でもそう呼ぶ人はまずいない。ナンキンだ。子供の頃はこの名前が嫌だった。中学のときに社会科の教師に「大虐殺くん」と冗談で呼ばれ、それ以後このニックネームが定着しそうになり、さすがにこのときは泣きながら職員室で抗議した。一度父親に「どうしてこんな名前をつけたんだ?」と聞いたら、先祖が京都の南のほうにいたらしいからと真顔で説明された。「だから誇りをもて」と言われたが、先祖が京都の南のほうに住んでいたことがなぜ誇りになるのか、未だによくわからない。(中略)
 生計の糧としては執筆だ。かつてはテレビのディレクターをしていた。自主制作のドキュメンタリー映画を作っていた時期もあった。でもここ数年は、1日の大半を机の上のパソコンに向かい、キーボードを叩くことで過ごしている。新聞や雑誌への連載も複数あるし、著書として刊行された書籍もいくつかある。有名ではないがまったくの無名でもない。

 引用したのは、2013年1月に上梓した『虚実亭日乗』(紀伊國屋書店)の冒頭だ。この書籍で試みた手法はフェイク・ドキュメンタリー(モキュメンタリー)の活字版。主役である緑川南京は著者である森達也のようで森達也ではない。つまりフェイクだ。

 敢えてフェイクにしたというわけではない。活字や映像にかぎらず、表現とはそもそもがフェイクなのだ。そんな思いを込めたこの書籍刊行後に、「主人公の名前の由来は何ですか?」と何度か質問された。でも明確には答えられなかった。「緑川」については自分でもまったく不明だし、「南京」についても南京虐殺から思いついたことまでは間違いないとしても、なぜ南京虐殺を名前に使おうと考えたのか、その理由がわからない。

 ただし書籍を刊行する前も後も、中国の南京に足を運んだことは一度もない。でもこの10月、やっと森達也は南京に行くことができた。だからここからは、虚実亭日乗の特別版。緑川南京を主軸に話を進める(何が「だから」なのかよくわからないけれど)。