震災にタイ洪水…
船出から相次いで
見舞われた荒波

 振り返れば伊東社長は、船出から相次ぐ荒波に見舞われた。11年3月の東日本大震災では、グローバル四輪研究開発の本拠地である栃木の研究所が深刻な被害を受けた。それからわずか半年後の11年10月、今度はタイの大洪水で主力工場が水没した。

 それらを乗り越えて、ようやく伊東社長がまいた種が商品となり、開花しつつあった。

 最も力を入れてきた主力商品、軽自動車「Nシリーズ」(11年12月~)と新型フィット(13年9月)が相次いで市場に投入されたのだ。

 先の本誌の質問に対し、伊東社長は在任中の6年間を振り返って、こう話を続けた。

「本音で相当記憶に残っているのは、やっぱり震災ですね」「ちょうどそのときに、彼(八郷常務)は鈴鹿製作所長だったんですが、非常に快く(栃木の開発陣を)受け入れてくれた。これが、鈴鹿で軽自動車開発部隊をつくるきっかけになった」

 ところが、である。フィットを投入してわずか1カ月後、歯車が狂い始めた。13年10月のことだった。フィットの1回目のリコールである。その後、14年10月までの約1年間で、フィットは計5回のリコールを届け出ることになる(週刊ダイヤモンド3月7日号・特集2「ホンダ リコール危機の教訓」参照)。

 これに追い打ちをかけたのが、14年6月から再発したタカタ製エアバッグの不具合問題だ。ホンダは歴史的な経緯から、タカタのエアバッグを積んだ車が多かったのだ(週刊ダイヤモンド3月7日号・特集2コラム「日本初のエアバッグを搭載 ホンダとタカタの蜜月」参照)。

 伊東社長が精神的にも体力的にも疲労のピークを迎えたのは、エアバッグの不具合をめぐり、米国で公聴会が開催された14年11~12月ごろだったと思われる。

 米国では14年2月、米ゼネラルモーターズがエンジン点火装置の欠陥を10年以上も放置していたことが発覚して以降、自動車の安全性が社会問題化していた。

 そうした中、今度はタカタ製のエアバッグが暴発して死者が出る事故が数件発生。それらが全てホンダ車だっただけに、追及の矛先が一気にタカタとホンダに向けられたのだ。米国とは時差もあるため、「毎日早朝に幹部が集まって対応に追われた」(ホンダ幹部)。