部長にはことの経緯の説明を求められた。彼は正直にすべてを話し、自分はどちらの味方でもなく、ヒアリングに基づいて、正確と思われる判断をしただけだといった。

 部長はその旨を納得してくれたようだが、それ以来、その係長は友人を避けるようになったという。その後しばらくしてから、友人は取締役の1人から、その係長のことを聞かれた。

「○○課係長の××君って、管理職としての能力はどうだと思う?」

 いきなり、そんなことを聞かれて面食らった友人は「質問に質問を返して申し訳ないのですが、どうしてそんなことを尋ねるのですか?」と思わず尋ね返してしまった。

 取締役は「すまない。実は彼の直属の上司の○○課長から、彼は管理職としてはよくない、特定の部下をひいきしてる、という話を聞いたんだよ。それで君ならいろいろ知っていると思ってね」と続けた。

 友人は、それは守秘義務も発生する業務上の話なので、インフォーマルな場での返答はできないことを取締役に伝えた。彼も「すまなかった。確かにそうだね」といってそれ以上は聞いてこなかった。

「敵」「味方」でしか人間関係を見ない
有名東大教授も陥った“罠”

 この例でわかるのは、この係長はどうもすぐに「敵」「味方」という区別をしたがっているらしいということだ。自分の部下に対する隣の課長の厳しい評価も、中身を吟味するよりも「個人的怨嗟」と決めつけてしまっている。係長自身、悪い人ではないのだが、そういった目で社内組織を見てしまい、それ以外の視点が持てないでいる。

 現在係長は会社を辞めてしまったそうだ。理由は「人間関係に疲れてしまって、鬱症状になった」というものだった。だが、周りの人にいわせると、それは彼の「独り相撲」で、友人のことを「○○さんのグループに味方する人」のように話したり、自分と対立する意見を言う同僚に「お前は俺の味方じゃないのか」という言い方で攻撃したりと、すべてが「敵」「味方」という視点だったという。

 似たような話は、私たち学者の業界でもよくある。相当昔の話だが、東大の社会学には2人の大御所A教授とB教授がいた。世界的に見れば大した業績はないものの、日本の社会学会では2人ともいわゆる重鎮で、有名な著書や訳書もあった。その2人は長年にわたり大変仲が悪く、それはもう名物になっていた。

 あるときA教授の授業で、学生が批判めいた質問をした。その時A教授は、「お前はBの回し者かっ!」と怒鳴ったという。つまり、その学生の批判をまともに聞くことをせず「敵」「味方」でものを見てしまっているのである。

 有名な東大教授でさえ、そういった見方にとらわれるのだ。事実社会心理学の実験では、こういう見方は実はかなり人類普遍であることがわかっている。