麻生太郎首相は、自民党内からの反対論噴出にもかかわらず、税制改革関連法案での「11年度の消費税率引き上げの明示」にこだわった。景気対策を最重要視している麻生首相が、なぜ景気に冷水を掛けるリスクが高く、次期衆院選にも悪影響が懸念される「増税時期の明示」に固執したのか。今回は、1996年の自社さ政権による「大蔵省改革」から始まる「新・財務族議員」の台頭という日本の政治の潮流を振り返りながら、この問題を考えてみたい。
「大蔵省改革」以前の大蔵族議員
60年代後半まで、河野一郎・川島正次郎ら自民党・党人派政治家(官僚出身でない政治家)が、大蔵省主計局が握る予算作成権を奪うために、主計局を内閣に移す「主計局移管論」を主張した。これに対抗したのが、福田赳夫ら大蔵省出身の政治家「大蔵族議員」であった。
しかし、60年代後半以降、党人派政治家と大蔵省が「パートナー関係」を築くようになった。自民党が「主計局移管論」をあきらめる代わりに、大蔵省が予算査定権の一部(復活折衝やODA、石油税など予算の特別枠)を自民党に譲ったのだ。その結果、大蔵省は予算査定を通じて各省庁を管理でき、自民党は支持者への利益誘導ができた。
自民党内では、他省庁の族議員が予算配分に強い影響力を持つようになり、逆に大蔵族は、宮沢喜一ら少数の大蔵省出身議員が金融問題を専門的に議論するだけの小さなサークルとなった。
「大蔵省改革」と
「新・財務族議員」の登場
93年の自民党の下野は、大蔵省と自民党の関係を変化させた。細川政権と大蔵省が「国民福祉税」導入に動くなど手を結んだことに、自民党が態度を硬化させたからだ。そして、自社さ政権誕生で自民党が政権に復帰した後、連立与党内に、「大蔵省改革与党プロジェクトチーム」が発足した。
このチームを舞台に、塩崎恭久、前原誠司、枝野幸男、玄葉光一郎、簗瀬進、安住淳らが、「財政と金融の分離」「日銀の独立性確保」など大蔵省の権限を奪う改革に取り組んだ。後に「政策新人類」と呼ばれた面々である。