「弱者が権利を訴える」のを
どう捉えるべきか

 自分の経験から思考しようとすると、最強の弱者となって自分を「痛い目」に遭わせた人と、ニュースの中で権利を主張している弱者とを重ねてしまう。ただし、言うまでもなく、自分を痛い目に遭わせた人と、ニュースの中で語られている人は別の人だ。

 また、経営者という立場にある以上、相手がいくら理不尽な要求をしてきたとしても、「そんな人物を採用してしまったこと」「その人物に対してしかるべき教育をできなかったこと」の責任は自分につきまとう。さらにいくら理不尽に見えたとしても、彼ら彼女らにしてみれば「正当な訴え」であり、それを主張する自由はある。

 以前いじめ問題を取材していたときに、ある教育関係の識者が「モンスターペアレントの問題ばかりが過剰に取り上げられることに疑問がある」と言った。

 これまでの歴史において、学校内での構造は教師側が「強」、生徒と保護者は「弱」だった。「強」の立場が続けてきた体罰やスクールセクハラやいじめ問題の放置について、確固たる検証や報道がなされていないのに、ごく一部の保護者のモンスター的な言動が面白おかしく取り上げられ、話題になり、バッシングされる。「強弱」の構造があったからこそこれほど簡単にモンスターペアレントの存在が誇張され、本来の「強弱」が無効化されるのだという話だった。

 弱者が権利を訴えようとするとき、強弱の逆転現象が起こることがあることには、気をつけなければならないと思う。