京王線と小田急線にはさまれた世田谷線に沿ってのびる赤堤と、その西側に位置する経堂の街は、ともによく名前の聞かれる世田谷の「お屋敷街」である。至便な交通網をもちながら、道ひとつ入ればあくまで閑静なその住環境は、早くからの街並み形成によってつくられた。表面的な華やかさよりは実質的なその住み心地こそが、憧憬に値するのだ。

街の名前は
一種の「品種保証」

 人気が高い世田谷区の住宅街の中には、とくに評判のいいいくつかの街が存在する。赤堤と経堂はともにそうした街の1つに数えあげられるだろう。この2つの地名が住所につけられているとしたら、それは一種の「品質保証」的な意味合いをもつといってもいい。赤堤・経堂は実質本位、アメニティ重視のブランドである。その理由は、都市機能と住環境のバランスのよさに求められるだろう。

 例えば赤堤の場合は、街の北と南に、京王線と小田急線の駅をもっている。住所が赤堤であるということは、必ずどこかの駅、あるいは複数の駅に徒歩圏内であることを意味する。これは第1の保証である。そして商店街はこれらの駅の周辺にある。しかも商店街の多くは隣町との境界線でもある。買物に不自由せず、しかも街の内側では商業地と住宅地の混在が少ない。これも保証できる。

 そして、赤堤の街の中で駅から遠いということは、他のどこかの駅から近いということである。より一層の閑静さを求めて駅から離れることは不便につながらないことも保証されるのである。こうして、街のどこをとっても、便利さが互いに犠牲にせず、絶妙のバランスをもつのが赤堤である。

 一方、経堂も、地名と同じ駅と、隣駅・千歳船橋にまで広がっている。場所によっての当たり外れがないのは同様である。さらにこの2つの街には共通点がある。下高井戸、経堂はそれぞれ日大文理学部、東京農業大学の学生が乗降する駅であるが、学校は赤堤にも経堂にもなくて、隣接する街に位置するのだ。学校の存在は閑静さを破ることなく、駅前の賑わいと商店街に貢献するのみの仕組みなのである。こうして、交通の便もよく、生活の便利性も高い街が、荒されることもなく残っている。周辺の街を含めたエリアの中で、純然たる住宅地ゾーンなのが赤堤であり、経堂なのだ。

 街角を一つ細道に回り込むと、広壮な、しかも派手ではない住宅が現われる。赤堤も経堂も、そうしたお屋敷街である。そしてその評判はとくに、これらの街にいいところを取られた格好の、周辺の住民の間で実に高いのだ。周囲の街には同様のアメニティがあっても、それは街の一部であって全体ではない。街の名から連想されるイメージは、歴然とした差があり、それは誰しもが認めているのである。

区画整理により
「住居の楽地」に

 いまでこそ住宅地として完成された街であるが、赤堤・経堂は世田谷のほかの地域と同様、近代までは農村としてのみ存在していた。江戸時代には赤堤は天領(幕府領)または旗本領、経堂は彦根藩井伊家の治める人家もまばらな村であった。明治に入っても、その状況は変わっていなかった。大きな転換は、まず赤堤に訪れる。大正4年の京王線の開通である。農村でしかありえない土地に、都心に通勤するサラリーマンの住宅が建てられ始める。